2010年11月5日金曜日

過剰包装

寝室の蛍光灯が切れたので、駅前のビックカメラに買い物に行ったと思いねぇ。蛍光灯は丸形で、40型と32型の組み合わせな訳だ。で、ビックカメラに行ってみると、色んな発色型の奴があるわけですわ。40型と32型をセットにして売ってる奴があったので、とりあえず演色性が一番良さそうな奴にしてみたわけだ。

んが、家に帰ってよく見てみると40型と30型の組み合わせだったのよ。のぉぉぉぉ!紛らわしい、そんな組み合わせを隣同士で置いておくなよぉぉぉ。

仕方が無いので32型を単品で買おうとしたが、これが店頭に売ってない。こういう時はもうオンラインショッピングに限るわけで、ヨドバシドットコムのお世話になりました。で、商品は届いたのだが…





えぇ、丁寧に扱ってくれるのは良くわかるのですが、はっきり言って過剰過ぎます。これもでも、コスト削減の一環なんだろうなぁ。同じサイズの段ボールとか纏めて仕入れた方が安いんだもんな。

2010年10月24日日曜日

画竜点睛を欠く

洋の東西を対比するのは西洋的分析で、その意味では偏っていると認識した上で比較分析をしてみる。バランスの取り方について、天秤式ではなく円でといった様な事を書いた。天秤は西洋では公平や判断の象徴で、確か米国の裁判所のシンボルにもなってた記憶がある。日本の司法機関ってどうかなと調べたのですが、立て札がモチーフになっているらしい。個人的には左右に分ける何かではなく、「一」であることに何らかの意味付けをしたいがさすがにやり過ぎか。

思うに西洋的価値観の背景には「完全」の理想があるのではないか。完全というバランスの究極に向かって要素を足して、足して、近づこうとする。或いは完全とは何ぞやと問い詰め、黄金比なる数学の概念で説明を付けたりする。天与の理想形が存在している、そこが基盤ではないか。一方で東洋的価値観は引き算を背景に持つとの考えを聞いた。無駄を省いて単純な美しさを求めたり、場合によっては西洋的にいうバランスを敢えて崩す方向に持って行ったりする。この価値観に、東洋的なバランスの取り方を見ることが出来るのではないか。

西洋ではバランスは天与のモノであり、「与えられた完全」と認識する。一方東洋ではバランスは自分を含めて成立させるモノであって、外から眺めるものではない。雲間に隠れた風景は観る側が想像で補い、個々人が各々のバランスを得るのだ。そこでは自他が一体となる調和が得られる。

「画竜点睛を欠く」という言葉は、良く完全に一歩足りないという否定的なニュアンスで使われる。私はこの言葉が東洋的価値観の奥深さを表していると思うようになった。画家が龍の眼を入れなかったのは、観る者がそれぞれのバランスの埋め方をして、個別の価値を創造させる意図だったと思う。眼を入れられた龍が天に昇ってしまったのは、天与のバランスが人の手を離れて天に還ってしまった、とはさすがに穿ちすぎだろうか。

2010年10月20日水曜日

枕を買う

ここ暫く頭痛がとんでもなくて、肩こりもとんでもなくて、間違いなく体が歪んでるなあと思ったので、いつもの整体に行ってきました。ここに行くと半年は体が持つ。はずなんだが、今回はどうもよろしくない。実はここ最近枕の調整を色々していたんだが、やっぱり素人の調整では巧く行かないらしくって、どうも非常によろしくない方向に向かっていたらしい。そこで一念発起、まともな枕を買うことにした。

昔使っていたTempurはよろしかった記憶があるので、今回も低反発ウレタン系のものを狙うことにしていた。そこで会社帰りに某LAZONAに寄ってみた。まずは無印良品に行ってみる。羽枕もあるし、低反発ウレタン系もある。ご自由にお試し下さいのベッドがあったので、色々試してみた。羽枕は雰囲気は嫌いじゃないんだけど、今の私にはどうも合わないらしく、暫く寝てるとちょっと首下辺りが疲れてくる。それで低反発ウレタン系を試してみた。どうやら結構低めの奴がいいかなという感じ。だけどやっぱりTempurの素材に比べると接触部分に負担がかかってる気がした。

そこで今度はLOFTに行ってみた。ここにはTempurが置いているので、こっちで試してみようと考えた。Tempurもあんまり考えてなかったが、色々サイズがあるらしい。とりあえず無印で試して具合の良かったサイズに近いのを二つ選んで、店員を捕まえて試させてもらおうとした。

J:「枕を試したいんですが、場所ありますか?」
店員:「申し訳ありません、場所は無いんです。」

裏のスペースとかどっか借りて試させてもらえないものかと期待したが、どうやら出来ないらしい。無印さんはちゃんとスペース作って試させてくれてましたけどね、とかライバル店と比べて振ってみても、何も進展はなし。仕方が無いのでそのままレジに行って、持って帰って試してから合わなかったら交換してもらえるのか訊くことにした。

J:「枕買おうと思うんですが、合わなかったら返品/交換は可能ですか?」
店員:「未使用であれば承ります。」
J:「いや、使わないと合うか合わないか判断できないですよね?」
店員:「そうですねぇ〜。でも高額な商品ですので。」

いやちょっと待て。こっちだって「高額な商品」だから買うのに慎重になるし、試したいって言ってるんだよ。それをそのための環境は無いわ、試すのに使ったら返品は受け付けないって言うわ、ものを売る立場としてその態度はどうなんだと。

結局、枕を包んでいるビニール袋から出さずに試すという条件なら、持ち帰って試していいということになった。ちょっとというか、かなり店の対応には不満が残るが、こっちにしてもまともな枕を手に入れたいというのが主要な目的なのでそこはとりあえず引き下がった。

結果的には枕は合格。返品とかややこしいことをせずに済みそうで良かった。

2010年10月12日火曜日

四対一

一日遅れではありますが、昨日の清水市代女流王将と「あから2010」の対局がありました。


こいつが勝利。しかし見れば見るほど脱力するキャラでして…

ま、それはともかくとして、今回の対局、果たして人間がコンピュータに負けたのでしょうか。いや、結果だけ見れば86手で清水女流王将が投了しているので「あから2010」の勝利ではあった訳です。

「あから2010」は、異なる四つの将棋ソフトの合議制で動いております。合議制というのはどういう事かというと、四つの異なる将棋ソフトがそれぞれ打つ手を検討して、多数決によって次の一手を決めるという方法です。「あから2010」に搭載されたソフトは以下の四つ。


  • 激指
  • GPS将棋
  • Bonanza
  • YSS
これら、作者が異なる四つのソフトが合議制に基づいて次の手を決める、これが「あから2010」の基本動作です。四つのソフトが全て同じ手を出せば、当然その手が次の手になります。一つだけ異なる手を出してきた場合は、残った三つが出してきた手を採用、といった具合です。これはソフトウェア工学の分野では古くからNバージョンプログラムと呼ばれてきたアプローチで、非常に高度な信頼性を求められるシステムに導入されてきた実績もあります。

これって要するに、四人掛かりで一人の人間に挑んでいる様なものです。しかも素人の四人ではない、プロの対局を数万通りも学習し、お互いに切磋琢磨し合ってきたコンピュータ界では最強の四人なわけです。その四人が束になって、お互いのミスを補い合って、ようやく一人の人間に勝てたというのが今回の試合だったと思います。

IPSJは「ゆくゆくは名人と」などと言っているようですが、今回のアプローチでたとえ名人に勝てたとしても、何というか将棋の試合としては認めたくないなぁというのが正直な感想です。

2010年10月10日日曜日

ノーベル平和賞

劉暁波氏へのノーベル平和賞授賞の件、自分で色々考えたり調べたりし、様々な意見に触れたりしたが、現状の意見。今回のノーベル平和賞の選考は良くない判断だ。一言で言えば「余計な事をした」と思う。

劉暁波氏にノーベル賞を贈る事の意義は何だ?それで彼の思想が彼の意図通りに認められるのか。彼の理想実現の助けとなるのか。少なくとも今贈る意義が有るのか?余計に中国政府を強硬姿勢に追い込むだけではないか。彼に最悪の事態が起きた時の責任が取れるのか。日本は腰抜けだが、ノルウェーは中国と戦ってるな、などという意見もあるがとんだ見識だ。将に政治的に、或いは実際に抹殺されようとしている人物を見殺しにして「高邁な思想」を謳ってるに過ぎない。名誉で腹が膨れるか?名声で理想が実現出来るか?

ちなみにこれを機に、ノーベル賞についても少し調べてみた。例えば、最初にTwitterで呟いた時に間違えたのだが、ノーベル平和賞はスウェーデンではなく、ノルウェーが授賞主体だ。これ以外の各賞は全てスウェーデンが授賞主体だが、正確には賞ごとに選考者が異なっている。平和賞のみがノルウェーのノーベル委員会により選考されている経緯は、スウェーデンとノルウェーの和解の印であるという。

こういう経緯を聞くと、どうも穿った見方をしてしまうのが私の性らしい。なんと言うか、ノーベル平和賞ってのはノーベル賞自身の権威付けに使われてるのではないか。友人が奇しくも「平和の事もちゃんと考えてるんですよ〜というアピールみたいなもの」と面白い表現をしていたが、正にそういう感じじゃなかろうか。今回の平和賞授賞も、劉氏をダシに使ってるのではないかと勘ぐりたくなる。聞けばかのマハトマ・ガンジー氏に平和賞が授賞されなかった理由の一つに「インド一国に対する貢献だから」というものがあったらしい。であれば明らかなダブルスタンダードだ。要は自分たちの権威付けに必要か必要でないか、それが大きな授賞理由になってるのではないか。

現在中国で起きている事は確かに問題だ。問題提起を続ける事も重要だろう。でもあくまで慎重を要する。一国の、一組織の狭隘な価値観で説得したり変化を期待出来るものではない。劉氏の妻が当局に拘束されたという情報も出たりしているこの状況をみても、「ノルウェーよくやった」と単純に言っていられるのか。去年のバラク・オバマ大統領への授賞も多分に胡散臭かったが、今回のは人の安否に関わる分、深刻だ。

2010年10月9日土曜日

論語と韓非子

中国古典の代表格である「論語」は、孔子の言行録です。孔子という人は、人間の本性は善であるから、良い手本の下でなら自ずと良い人格が育まれると考えていたようです。性善説という奴ですね。孔子を祖とする一派を儒家と言いますが、彼らは概ねこの性善説が根っこに有るようです。あとは身分階級や長幼の序を貴ぶ等の特徴もあり、日本で江戸時代に学ばれた朱子学もこの一派です。

私の尊敬する 守屋洋先生は、性善説の対極にある性悪説の代表格として「韓非子」をあげられて、両者のバランスよい活用を勧めた著書をお持ちです。書物として纏められているものとしては、確かに韓非子が性悪説の代表格と言えるでしょう。性悪説、つまり人間の本性は悪であるという考えは、違う言い方をすると人間は「利」で動く生き物だという考えです。だから法律や刑罰で治めなければならないとしています。よってこの一派を「法家」と呼びます。

実は法家の教典としての韓非子は、これまできちんと読んだことは有りませんでした。私にとっての法家のルーツは、商鞅です。韓非子より先、秦の孝公に仕え、法家による政治改革を推し進めました。戦国七雄の中から秦が最強国にのし上がったのは、この時代です。商鞅と韓非子は時代は異なれども同じく秦に仕え、前者は強大国への変貌を補佐し、後者は中国統一への道筋を作りました。一方で儒家はどうだったかというと、政治の表舞台で成功を修めた様子はありません。だからと言って優劣を決められるものではなく、これは恐らく時代背景の問題でしょう。法家統治は利の追求を是とする訳ではないですし、儒家統治が利の追求を悪とする訳でもありません。統治をその時代の行動原理に合わせる方が主眼で、統治が行動原理を規定すると言っているわけではないです。

戦国時代の様に人心が荒む時代には、人の利を追求して生き延びようとする本能が強く表出するため、法家思想による統治が有効に働いたのではないでしょうか。逆に日本の江戸時代の様に安定した時代に朱子学が学ばれた様に、人心が安定すれば義を貴ぶ儒家の政治が力を発揮するのかも知れません。やはりここでも、白か黒ではないバランスを考慮した取り組みが望まれているという結論に落ち着きそうです。正確には、これも天秤の左右でバランスをとる西洋的イメージよりは、融合した円の東洋的イメージを目指したいところです。

2010年10月6日水曜日

平均を疑え

個別の論について反対したい訳ではないので、とりあえずざっくりと経緯をご紹介する。とあるブログでこのような論があった。

日本人の成人の平均年齢は50代だが、とある司法判断に携わったメンバーの平均年齢が「30.9歳」というのは変。

私は平均を持ち出す議論はまず疑ってかかる。平均「だけ」で論を組み立てようとするのは、極論をすれば怠慢か欺瞞かの何れかだと思っている。これはその論を否定する訳ではなく、論として成立しないだろうという意味である。件の論も、ひょっとしたら本当におかしいという結論に至るかも知れない。だがその根拠が「平均年齢」だけってのはあまりにもお粗末に過ぎるという事だ。

まず最低限、平均を語る時に考えないといけないのは分布だろう。分布まではいかなくても、分散くらいは確認しておきたい。更に規模が全く違うもの、あるいは性質の全く異なる集合同士では、そもそもある属性値の統計量で比較すること自体が適切ではない可能性もある訳だ。今回の場合は、そもそも「年齢」という属性が本当に大きな要因になるのだろうか。問題となる司法判断に関係するのは年齢ではなく、平均余命かもしれない。そんな属性は全く関係なく、年収が関係あるのかもしれない。いやいや、そもそも定量化可能な属性には意味が無い可能性もある。一体その論を組み立てる為に、年齢がどの程度の意味がある事なのか。因みに件の論に関しては、私は年齢をメトリクスに取った意味を余り感じられなかった。

数字、定量的なデータに基づいた論は、何となく説得力があるように思う。一つにはそれが検証可能であるからで、客観性という意味では数字やデータに基づいた論を展開する事は重要な事だと思う。だが実のところ、数字があれば説得力があるのかと言えばそれは全然別問題。平均を取るなんてのは、データ分析を何もやっていないに等しいのだ。

論を補強する為に正しいメトリクスを選んで、正しい分析をする事。それが出来て初めてデータに基づいて論を組み立てたと言える。

2010年10月4日月曜日

表演会

10月3日(日)に、恒例の太極道交会合同表演会が開催されました。五年前くらいから運営に携わるようになり、ここ数年はプログラムの取り纏めと司会進行を主に担当してきました。今年は司会を若手二人にお願いする事にして、事前の取り纏めと当日の総指揮を担当しました。いやぁ、司会をせずに済むだけで相当楽をさせてもらいました。





しかし今回の運営はお世辞にも計画的とは言えず、色んな人にご迷惑をかけた事と思うのですが、うちの会はどうやら性善説で動いてるなぁという感想。みんなきちんと準備をしてるのですよね。細かい事は色々不都合はあるのですが、最終的には協力し合ってうまく動くようになっている。もちろん、いざという時の法や術は必要なんでしょうが、やっぱり徳で動く組織なんだなぁと実感しています。

2010年9月29日水曜日

色覚

最近立て続けに色覚に関するエピソードがあったのでまとめて。

その1
私は赤緑の色覚異常をもってるのですが、最近こんな事があった。細かい状況は割愛するが、とある物の色に合わせて対応する色の四種類の道具を準備するという状況だった。色は定期的に変わるので、参加者はその色の道具を出す事が求められる。ところが私はまず、その四色のうち二色を見分ける事が出来なかった。更に、四色それぞれに対して対応する色の道具を見分けられる自信も無かった。そこで参加者に、今どの道具を出すべきかを教えてくださいとお願いしたのだが、最初はその道具を色名で指定してきた。どうやら色の区別がつかないという概念が理解できないらしい。

そういや思い当たる節があって、色がわからない事と色の名前を間違えて覚えている事、あるいは色の名前を知らない事との区別がつかないらしい人も居た。色覚異常というのは、例えば私の場合は赤と緑が同じ色に見えるのである。ちなみに、「赤が緑に見える」わけでも「緑が赤に見える」わけでもない。恐らく私の見ている世界を正常な色覚の人が見れば、赤でも緑でもない色に見えるのだと思う。ま、その色の区別がつかない事が回り回って、色の名前を知らない、間違えて呼んでしまうという事にも繋がるので、その状況しか認識できないと確かにそういう誤解があるのかなとは思う。

その2
息子が中禅寺湖にキャンプに行ってきた。帰ってきて色々話をしてくれるのだが、印象的だったのは如何に寒かったかという事を伝えてくれたエピソード。一日目にとある木を見ると赤、黄、緑の三色に染まっていたのだが、とても寒かった晩が明けた翌朝に見ると、赤と黄色の二色に変わっていたというのだ。

私も知識としての紅葉はもちろん知ってはいるし、かなり鮮やかな色になれば認識は出来る。しかし、恐らく一晩で変わる程度の色の変化は認知できない。この季節の紅葉の木々を見て、錦と形容されるその景色は恐らくは相当にきれいなのだろうと思うが、残念ながらそれを知る事はかなわない。

その3
会社の研究部門でポスター発表会があった。その中に老眼や色覚異常の見え方を支援する技術というのが紹介されていた。なんでも映像情報の方を補正してやって、老眼の人や色覚異常の人にも見えやすい映像を作成するという試みであった。特に色覚異常の方に興味を持って色々聞いてみたが、当然と言うか何というか別に赤と緑が区別できる様な映像信号を生成する様な話ではなかった。いや、ある意味そう言う話なのだが、要するに色空間のマッピングを変えてやって、色覚異常の人でも見分けのつく色マップに変換するという話だった。

仮にそう言う技術で紅葉の山々の景色を変換してもらって、実際の色とは異なりながらも多彩な色を見られるようになったら、同じように感動が出来るのだろうか。少し興味がある。

2010年9月26日日曜日

日本人のアイデンティティ

某所で呟いていた内容を再整理してみた。


日本のアイデンティティとは何だろうかと考えることしばし。某研修で新渡戸稲造の「武士道」や岡倉天心の「茶の本」に触れる機会があった。そこにはそれぞれのやり方で日本の独自性やアイデンティティについて論が展開されていた。ただ時代背景、即ち海外の列強とどうやって渡り合って行くのか、あるいは現実に脅威を受けているという事などを反映してか、やはり相当に美化が強いように感じる。岡倉の"Asia is one."が戦前の大東亜共栄圏思想に「利用された」という説も読んだが、それは将に美化の産物ではなかったか。あるいは岡倉はまさにそれを意図していたのではとさえ感じた。

研修での意見交換の最中であるが、日本の特徴として他の文化に「染まった振り」をするのがうまい、という意見があった。なるほど言い得て妙かもしれない。明治の文明開化で西洋化したとは言われるが、よく言えば魂は売らない、悪く言えば上っ面だけ真似た西洋化なのだと思う。日本は根底を揺るがすような大きな変革を経験していないのだという意見もあった。直近では明治維新などは単なる政権交代にすぎないという見方もある。海外の所謂「革命」と呼ばれるものとはかなり質が異なる。

そもそも日本は世界でも異例の長期安定政権の多いお国柄なのだとも言われる。平安時代はおよそ350年に渡って貴族の安定政権が続いたし、江戸時代もおよそ250年に渡って武家の安定政権が続いた。これらの時代の特徴は、海外からの影響を排除する傾向にあったという事ではないか。平安時代は隋唐の影響下から脱しようとした時期であるし、江戸時代は言わずもがな鎖国を続けた時代である。海外との交流が無ければ独自に文化を発展するしかない。日本は人口も必ずしも多くなく、資源にも恵まれた国ではないので文化の発展速度は諸外国のそれと比べると遅いと言っていい。事実、文化的発展の加速は常に海外からの刺激による物だった。

確かに海外からの刺激によって急激な発展を遂げる事はあるが、価値観の根底を揺るがす様な変化をあまり好まない、それが日本人の本質であるように思う。そんなものは幻想で、本質などないのかもしれない。ただ、他国の人からどういうステレオタイプで見られているのかは意識しないといけないだろう。ある人は「いつもヘラヘラしている国」という強烈なステレオタイプを提示した。変わらずにその場をやり過ごせれば、また昨日と同じ日が来ると思っている、それが日本の本質なのか。2ちゃんのコピペでもあったような気がするが、原爆を落とされても、ミサイルを向けられても、領土を奪われても、不当な謝罪を求められても、お金は出すは援助はするは、謝罪はするは。本当に食べ物のことしか怒らない国かも。今回の尖閣の話もまたその一事例として残るのだろうか。

2010年9月25日土曜日

尖閣に関する諸々

昨日の詹容疑者釈放以来、Twitterやらブログやらなんやらで、色々な意見を目にする。色々とはいえ、多くは日本の弱腰外交を非難するものである。ただその非難の矛先がどうも色々と誤解や先入観に基づいているものが多いように思えるので、少し自分なりに整理してみる。

なお以下では、

  • 尖閣諸島は日本の領土である
  • 中国漁船の巡視船への衝突は公務執行妨害、器物破損の容疑である

を前提としています。

まず吃驚したのは、海上保安庁を非難するコメントの多い事多い事。今回の件で海上保安庁を非難するのは明らかに筋違い。彼らは日本の領土、領海を警備する中で今回の拿捕、逮捕へと至る一連の行動をとった訳で、これ自体は正当な職務遂行だと考える。ましてや釈放について何らかの責を負うものでは全くない。

次に釈放を決定した那覇地方検察局に対する批判も多い。これには二通りの非難がある。一つは「たかが一地検ごときが国益を左右する事案を独断で判断するとは何事」という意見。もう一つは「三権分立はどうなったのか」という意見。

前者については、それをそのまま非難する人に対して問い返したい。普通に考えて一地検がそんな判断ができると思うかと。明らかにできない。ということはこれはもっと上位の政治判断なりが存在したという事。那覇地検は今回の件では明らかに貧乏くじを引かされている。個人的には関係者の安全が心配だ。

後者については、私も誤解していたし多くの人が誤解しているようだが、検察は「司法機関ではない」のである。検察はれっきとした行政機関だ。つまりこれは完全に行政の腰砕けそのもの。しかもそれは、どう考えても一地検の独断ではあり得ない。個人的には一番最初に「地検の独自判断と聞いてる」とか嘯いた奴が怪しいと思っている。

さて、今回の中国の対応についても非難は当然上がっております。が、ここからは恐らく大多数の皆様と意見が異なるところです。

私は今回の中国の行動について、日本的価値観からみれば確かに暴挙をやってくれたと思いますが、中国的視点から見れば至極当然の行動をしているとみています。そりゃ当たり前だろう、と言うでしょうか。恐らくそうでしょう。

そこが肝心で、国際関係は所詮国の価値観と価値観とのぶつかり合いです。実のところその価値観の差異、衝突、干渉をどのように緩和し、関係を保つかが重要な訳です。日本の価値観が世界的に通用すると思ってはいけないわけです。まずは個々の国がそれぞれの価値観や拠って立つところを明らかにし、そこから折衝をしなくては行けない。明らかに問題になる状況、例えば人命を損なう様な事態で無い限り、誰の正義も共有できるものではないのです。

実質的に人質になっている某企業の四名の人命を軽んじる訳では決して無いですが、今回の外交は自国の立場を曲げて相手の価値観を一方的に認めただけの結果になった。これは中国の暴挙というよりは、日本の軽薄さだと思います。平和ぼけとは、なるほどこういう事なのかもしれません。危機管理意識が問われているのだと思います。

2010年9月22日水曜日