2010年9月26日日曜日

日本人のアイデンティティ

某所で呟いていた内容を再整理してみた。


日本のアイデンティティとは何だろうかと考えることしばし。某研修で新渡戸稲造の「武士道」や岡倉天心の「茶の本」に触れる機会があった。そこにはそれぞれのやり方で日本の独自性やアイデンティティについて論が展開されていた。ただ時代背景、即ち海外の列強とどうやって渡り合って行くのか、あるいは現実に脅威を受けているという事などを反映してか、やはり相当に美化が強いように感じる。岡倉の"Asia is one."が戦前の大東亜共栄圏思想に「利用された」という説も読んだが、それは将に美化の産物ではなかったか。あるいは岡倉はまさにそれを意図していたのではとさえ感じた。

研修での意見交換の最中であるが、日本の特徴として他の文化に「染まった振り」をするのがうまい、という意見があった。なるほど言い得て妙かもしれない。明治の文明開化で西洋化したとは言われるが、よく言えば魂は売らない、悪く言えば上っ面だけ真似た西洋化なのだと思う。日本は根底を揺るがすような大きな変革を経験していないのだという意見もあった。直近では明治維新などは単なる政権交代にすぎないという見方もある。海外の所謂「革命」と呼ばれるものとはかなり質が異なる。

そもそも日本は世界でも異例の長期安定政権の多いお国柄なのだとも言われる。平安時代はおよそ350年に渡って貴族の安定政権が続いたし、江戸時代もおよそ250年に渡って武家の安定政権が続いた。これらの時代の特徴は、海外からの影響を排除する傾向にあったという事ではないか。平安時代は隋唐の影響下から脱しようとした時期であるし、江戸時代は言わずもがな鎖国を続けた時代である。海外との交流が無ければ独自に文化を発展するしかない。日本は人口も必ずしも多くなく、資源にも恵まれた国ではないので文化の発展速度は諸外国のそれと比べると遅いと言っていい。事実、文化的発展の加速は常に海外からの刺激による物だった。

確かに海外からの刺激によって急激な発展を遂げる事はあるが、価値観の根底を揺るがす様な変化をあまり好まない、それが日本人の本質であるように思う。そんなものは幻想で、本質などないのかもしれない。ただ、他国の人からどういうステレオタイプで見られているのかは意識しないといけないだろう。ある人は「いつもヘラヘラしている国」という強烈なステレオタイプを提示した。変わらずにその場をやり過ごせれば、また昨日と同じ日が来ると思っている、それが日本の本質なのか。2ちゃんのコピペでもあったような気がするが、原爆を落とされても、ミサイルを向けられても、領土を奪われても、不当な謝罪を求められても、お金は出すは援助はするは、謝罪はするは。本当に食べ物のことしか怒らない国かも。今回の尖閣の話もまたその一事例として残るのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿