2010年10月24日日曜日

画竜点睛を欠く

洋の東西を対比するのは西洋的分析で、その意味では偏っていると認識した上で比較分析をしてみる。バランスの取り方について、天秤式ではなく円でといった様な事を書いた。天秤は西洋では公平や判断の象徴で、確か米国の裁判所のシンボルにもなってた記憶がある。日本の司法機関ってどうかなと調べたのですが、立て札がモチーフになっているらしい。個人的には左右に分ける何かではなく、「一」であることに何らかの意味付けをしたいがさすがにやり過ぎか。

思うに西洋的価値観の背景には「完全」の理想があるのではないか。完全というバランスの究極に向かって要素を足して、足して、近づこうとする。或いは完全とは何ぞやと問い詰め、黄金比なる数学の概念で説明を付けたりする。天与の理想形が存在している、そこが基盤ではないか。一方で東洋的価値観は引き算を背景に持つとの考えを聞いた。無駄を省いて単純な美しさを求めたり、場合によっては西洋的にいうバランスを敢えて崩す方向に持って行ったりする。この価値観に、東洋的なバランスの取り方を見ることが出来るのではないか。

西洋ではバランスは天与のモノであり、「与えられた完全」と認識する。一方東洋ではバランスは自分を含めて成立させるモノであって、外から眺めるものではない。雲間に隠れた風景は観る側が想像で補い、個々人が各々のバランスを得るのだ。そこでは自他が一体となる調和が得られる。

「画竜点睛を欠く」という言葉は、良く完全に一歩足りないという否定的なニュアンスで使われる。私はこの言葉が東洋的価値観の奥深さを表していると思うようになった。画家が龍の眼を入れなかったのは、観る者がそれぞれのバランスの埋め方をして、個別の価値を創造させる意図だったと思う。眼を入れられた龍が天に昇ってしまったのは、天与のバランスが人の手を離れて天に還ってしまった、とはさすがに穿ちすぎだろうか。

2010年10月20日水曜日

枕を買う

ここ暫く頭痛がとんでもなくて、肩こりもとんでもなくて、間違いなく体が歪んでるなあと思ったので、いつもの整体に行ってきました。ここに行くと半年は体が持つ。はずなんだが、今回はどうもよろしくない。実はここ最近枕の調整を色々していたんだが、やっぱり素人の調整では巧く行かないらしくって、どうも非常によろしくない方向に向かっていたらしい。そこで一念発起、まともな枕を買うことにした。

昔使っていたTempurはよろしかった記憶があるので、今回も低反発ウレタン系のものを狙うことにしていた。そこで会社帰りに某LAZONAに寄ってみた。まずは無印良品に行ってみる。羽枕もあるし、低反発ウレタン系もある。ご自由にお試し下さいのベッドがあったので、色々試してみた。羽枕は雰囲気は嫌いじゃないんだけど、今の私にはどうも合わないらしく、暫く寝てるとちょっと首下辺りが疲れてくる。それで低反発ウレタン系を試してみた。どうやら結構低めの奴がいいかなという感じ。だけどやっぱりTempurの素材に比べると接触部分に負担がかかってる気がした。

そこで今度はLOFTに行ってみた。ここにはTempurが置いているので、こっちで試してみようと考えた。Tempurもあんまり考えてなかったが、色々サイズがあるらしい。とりあえず無印で試して具合の良かったサイズに近いのを二つ選んで、店員を捕まえて試させてもらおうとした。

J:「枕を試したいんですが、場所ありますか?」
店員:「申し訳ありません、場所は無いんです。」

裏のスペースとかどっか借りて試させてもらえないものかと期待したが、どうやら出来ないらしい。無印さんはちゃんとスペース作って試させてくれてましたけどね、とかライバル店と比べて振ってみても、何も進展はなし。仕方が無いのでそのままレジに行って、持って帰って試してから合わなかったら交換してもらえるのか訊くことにした。

J:「枕買おうと思うんですが、合わなかったら返品/交換は可能ですか?」
店員:「未使用であれば承ります。」
J:「いや、使わないと合うか合わないか判断できないですよね?」
店員:「そうですねぇ〜。でも高額な商品ですので。」

いやちょっと待て。こっちだって「高額な商品」だから買うのに慎重になるし、試したいって言ってるんだよ。それをそのための環境は無いわ、試すのに使ったら返品は受け付けないって言うわ、ものを売る立場としてその態度はどうなんだと。

結局、枕を包んでいるビニール袋から出さずに試すという条件なら、持ち帰って試していいということになった。ちょっとというか、かなり店の対応には不満が残るが、こっちにしてもまともな枕を手に入れたいというのが主要な目的なのでそこはとりあえず引き下がった。

結果的には枕は合格。返品とかややこしいことをせずに済みそうで良かった。

2010年10月12日火曜日

四対一

一日遅れではありますが、昨日の清水市代女流王将と「あから2010」の対局がありました。


こいつが勝利。しかし見れば見るほど脱力するキャラでして…

ま、それはともかくとして、今回の対局、果たして人間がコンピュータに負けたのでしょうか。いや、結果だけ見れば86手で清水女流王将が投了しているので「あから2010」の勝利ではあった訳です。

「あから2010」は、異なる四つの将棋ソフトの合議制で動いております。合議制というのはどういう事かというと、四つの異なる将棋ソフトがそれぞれ打つ手を検討して、多数決によって次の一手を決めるという方法です。「あから2010」に搭載されたソフトは以下の四つ。


  • 激指
  • GPS将棋
  • Bonanza
  • YSS
これら、作者が異なる四つのソフトが合議制に基づいて次の手を決める、これが「あから2010」の基本動作です。四つのソフトが全て同じ手を出せば、当然その手が次の手になります。一つだけ異なる手を出してきた場合は、残った三つが出してきた手を採用、といった具合です。これはソフトウェア工学の分野では古くからNバージョンプログラムと呼ばれてきたアプローチで、非常に高度な信頼性を求められるシステムに導入されてきた実績もあります。

これって要するに、四人掛かりで一人の人間に挑んでいる様なものです。しかも素人の四人ではない、プロの対局を数万通りも学習し、お互いに切磋琢磨し合ってきたコンピュータ界では最強の四人なわけです。その四人が束になって、お互いのミスを補い合って、ようやく一人の人間に勝てたというのが今回の試合だったと思います。

IPSJは「ゆくゆくは名人と」などと言っているようですが、今回のアプローチでたとえ名人に勝てたとしても、何というか将棋の試合としては認めたくないなぁというのが正直な感想です。

2010年10月10日日曜日

ノーベル平和賞

劉暁波氏へのノーベル平和賞授賞の件、自分で色々考えたり調べたりし、様々な意見に触れたりしたが、現状の意見。今回のノーベル平和賞の選考は良くない判断だ。一言で言えば「余計な事をした」と思う。

劉暁波氏にノーベル賞を贈る事の意義は何だ?それで彼の思想が彼の意図通りに認められるのか。彼の理想実現の助けとなるのか。少なくとも今贈る意義が有るのか?余計に中国政府を強硬姿勢に追い込むだけではないか。彼に最悪の事態が起きた時の責任が取れるのか。日本は腰抜けだが、ノルウェーは中国と戦ってるな、などという意見もあるがとんだ見識だ。将に政治的に、或いは実際に抹殺されようとしている人物を見殺しにして「高邁な思想」を謳ってるに過ぎない。名誉で腹が膨れるか?名声で理想が実現出来るか?

ちなみにこれを機に、ノーベル賞についても少し調べてみた。例えば、最初にTwitterで呟いた時に間違えたのだが、ノーベル平和賞はスウェーデンではなく、ノルウェーが授賞主体だ。これ以外の各賞は全てスウェーデンが授賞主体だが、正確には賞ごとに選考者が異なっている。平和賞のみがノルウェーのノーベル委員会により選考されている経緯は、スウェーデンとノルウェーの和解の印であるという。

こういう経緯を聞くと、どうも穿った見方をしてしまうのが私の性らしい。なんと言うか、ノーベル平和賞ってのはノーベル賞自身の権威付けに使われてるのではないか。友人が奇しくも「平和の事もちゃんと考えてるんですよ〜というアピールみたいなもの」と面白い表現をしていたが、正にそういう感じじゃなかろうか。今回の平和賞授賞も、劉氏をダシに使ってるのではないかと勘ぐりたくなる。聞けばかのマハトマ・ガンジー氏に平和賞が授賞されなかった理由の一つに「インド一国に対する貢献だから」というものがあったらしい。であれば明らかなダブルスタンダードだ。要は自分たちの権威付けに必要か必要でないか、それが大きな授賞理由になってるのではないか。

現在中国で起きている事は確かに問題だ。問題提起を続ける事も重要だろう。でもあくまで慎重を要する。一国の、一組織の狭隘な価値観で説得したり変化を期待出来るものではない。劉氏の妻が当局に拘束されたという情報も出たりしているこの状況をみても、「ノルウェーよくやった」と単純に言っていられるのか。去年のバラク・オバマ大統領への授賞も多分に胡散臭かったが、今回のは人の安否に関わる分、深刻だ。

2010年10月9日土曜日

論語と韓非子

中国古典の代表格である「論語」は、孔子の言行録です。孔子という人は、人間の本性は善であるから、良い手本の下でなら自ずと良い人格が育まれると考えていたようです。性善説という奴ですね。孔子を祖とする一派を儒家と言いますが、彼らは概ねこの性善説が根っこに有るようです。あとは身分階級や長幼の序を貴ぶ等の特徴もあり、日本で江戸時代に学ばれた朱子学もこの一派です。

私の尊敬する 守屋洋先生は、性善説の対極にある性悪説の代表格として「韓非子」をあげられて、両者のバランスよい活用を勧めた著書をお持ちです。書物として纏められているものとしては、確かに韓非子が性悪説の代表格と言えるでしょう。性悪説、つまり人間の本性は悪であるという考えは、違う言い方をすると人間は「利」で動く生き物だという考えです。だから法律や刑罰で治めなければならないとしています。よってこの一派を「法家」と呼びます。

実は法家の教典としての韓非子は、これまできちんと読んだことは有りませんでした。私にとっての法家のルーツは、商鞅です。韓非子より先、秦の孝公に仕え、法家による政治改革を推し進めました。戦国七雄の中から秦が最強国にのし上がったのは、この時代です。商鞅と韓非子は時代は異なれども同じく秦に仕え、前者は強大国への変貌を補佐し、後者は中国統一への道筋を作りました。一方で儒家はどうだったかというと、政治の表舞台で成功を修めた様子はありません。だからと言って優劣を決められるものではなく、これは恐らく時代背景の問題でしょう。法家統治は利の追求を是とする訳ではないですし、儒家統治が利の追求を悪とする訳でもありません。統治をその時代の行動原理に合わせる方が主眼で、統治が行動原理を規定すると言っているわけではないです。

戦国時代の様に人心が荒む時代には、人の利を追求して生き延びようとする本能が強く表出するため、法家思想による統治が有効に働いたのではないでしょうか。逆に日本の江戸時代の様に安定した時代に朱子学が学ばれた様に、人心が安定すれば義を貴ぶ儒家の政治が力を発揮するのかも知れません。やはりここでも、白か黒ではないバランスを考慮した取り組みが望まれているという結論に落ち着きそうです。正確には、これも天秤の左右でバランスをとる西洋的イメージよりは、融合した円の東洋的イメージを目指したいところです。

2010年10月6日水曜日

平均を疑え

個別の論について反対したい訳ではないので、とりあえずざっくりと経緯をご紹介する。とあるブログでこのような論があった。

日本人の成人の平均年齢は50代だが、とある司法判断に携わったメンバーの平均年齢が「30.9歳」というのは変。

私は平均を持ち出す議論はまず疑ってかかる。平均「だけ」で論を組み立てようとするのは、極論をすれば怠慢か欺瞞かの何れかだと思っている。これはその論を否定する訳ではなく、論として成立しないだろうという意味である。件の論も、ひょっとしたら本当におかしいという結論に至るかも知れない。だがその根拠が「平均年齢」だけってのはあまりにもお粗末に過ぎるという事だ。

まず最低限、平均を語る時に考えないといけないのは分布だろう。分布まではいかなくても、分散くらいは確認しておきたい。更に規模が全く違うもの、あるいは性質の全く異なる集合同士では、そもそもある属性値の統計量で比較すること自体が適切ではない可能性もある訳だ。今回の場合は、そもそも「年齢」という属性が本当に大きな要因になるのだろうか。問題となる司法判断に関係するのは年齢ではなく、平均余命かもしれない。そんな属性は全く関係なく、年収が関係あるのかもしれない。いやいや、そもそも定量化可能な属性には意味が無い可能性もある。一体その論を組み立てる為に、年齢がどの程度の意味がある事なのか。因みに件の論に関しては、私は年齢をメトリクスに取った意味を余り感じられなかった。

数字、定量的なデータに基づいた論は、何となく説得力があるように思う。一つにはそれが検証可能であるからで、客観性という意味では数字やデータに基づいた論を展開する事は重要な事だと思う。だが実のところ、数字があれば説得力があるのかと言えばそれは全然別問題。平均を取るなんてのは、データ分析を何もやっていないに等しいのだ。

論を補強する為に正しいメトリクスを選んで、正しい分析をする事。それが出来て初めてデータに基づいて論を組み立てたと言える。

2010年10月4日月曜日

表演会

10月3日(日)に、恒例の太極道交会合同表演会が開催されました。五年前くらいから運営に携わるようになり、ここ数年はプログラムの取り纏めと司会進行を主に担当してきました。今年は司会を若手二人にお願いする事にして、事前の取り纏めと当日の総指揮を担当しました。いやぁ、司会をせずに済むだけで相当楽をさせてもらいました。





しかし今回の運営はお世辞にも計画的とは言えず、色んな人にご迷惑をかけた事と思うのですが、うちの会はどうやら性善説で動いてるなぁという感想。みんなきちんと準備をしてるのですよね。細かい事は色々不都合はあるのですが、最終的には協力し合ってうまく動くようになっている。もちろん、いざという時の法や術は必要なんでしょうが、やっぱり徳で動く組織なんだなぁと実感しています。