2010年10月9日土曜日

論語と韓非子

中国古典の代表格である「論語」は、孔子の言行録です。孔子という人は、人間の本性は善であるから、良い手本の下でなら自ずと良い人格が育まれると考えていたようです。性善説という奴ですね。孔子を祖とする一派を儒家と言いますが、彼らは概ねこの性善説が根っこに有るようです。あとは身分階級や長幼の序を貴ぶ等の特徴もあり、日本で江戸時代に学ばれた朱子学もこの一派です。

私の尊敬する 守屋洋先生は、性善説の対極にある性悪説の代表格として「韓非子」をあげられて、両者のバランスよい活用を勧めた著書をお持ちです。書物として纏められているものとしては、確かに韓非子が性悪説の代表格と言えるでしょう。性悪説、つまり人間の本性は悪であるという考えは、違う言い方をすると人間は「利」で動く生き物だという考えです。だから法律や刑罰で治めなければならないとしています。よってこの一派を「法家」と呼びます。

実は法家の教典としての韓非子は、これまできちんと読んだことは有りませんでした。私にとっての法家のルーツは、商鞅です。韓非子より先、秦の孝公に仕え、法家による政治改革を推し進めました。戦国七雄の中から秦が最強国にのし上がったのは、この時代です。商鞅と韓非子は時代は異なれども同じく秦に仕え、前者は強大国への変貌を補佐し、後者は中国統一への道筋を作りました。一方で儒家はどうだったかというと、政治の表舞台で成功を修めた様子はありません。だからと言って優劣を決められるものではなく、これは恐らく時代背景の問題でしょう。法家統治は利の追求を是とする訳ではないですし、儒家統治が利の追求を悪とする訳でもありません。統治をその時代の行動原理に合わせる方が主眼で、統治が行動原理を規定すると言っているわけではないです。

戦国時代の様に人心が荒む時代には、人の利を追求して生き延びようとする本能が強く表出するため、法家思想による統治が有効に働いたのではないでしょうか。逆に日本の江戸時代の様に安定した時代に朱子学が学ばれた様に、人心が安定すれば義を貴ぶ儒家の政治が力を発揮するのかも知れません。やはりここでも、白か黒ではないバランスを考慮した取り組みが望まれているという結論に落ち着きそうです。正確には、これも天秤の左右でバランスをとる西洋的イメージよりは、融合した円の東洋的イメージを目指したいところです。

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