むかーし、そういや少し色々思うところがあって簡単なメモを残してたなと思ってた。
仕事が劇的に変わってすっかり止まってたのを、掘り返してみた。
青い内容もあるけど、結構考えさせられる内容もあったりする。
ま、これはこれとして、また思い出した時に色々記録に残しておくか。
2020年3月15日日曜日
2012年1月3日火曜日
大阪府立高津高等学校39期生卒業25周年同窓会
一言、良い高校に通ってたなぁと改めて思った一日だった。
25年という月日は思った以上に人を変える。一方で25年経っても変わらんものはたくさんある。
変化は、皆「色んな意味で丸くなった」ということ。自分も含め性格的に角が取れて丸くなったなぁと思った。高津って高校は「自由と創造」をモットーにした学校で、学区トップ校とは言え相当に雰囲気が穏やかだった思う。それでも内に秘めた才能を尖らせてた連中が多かったが、25年も経つとあちこちで色々ぶつかって角が取れてきたのだろう、本当に皆穏やかになってた。
もう一つは体格。いやぁ25年という月日の恐ろしさ。幅の増えた人の多かった事。特に男はおまえ誰やねんって程に巨大化してる奴多過ぎ。かくいう自分も、「そのままやなぁ」と言われつつも、実は高校時代からは10kg増えてる。一次会で会えた連中は胸に名札を付けてたので何とか同定できたが、名札もなくなった三次会で初めて会えた一人は、誰かに名前呼ばれてるのを聞いて我が耳を疑った。おまえそんなに幅ついてたら分からんわ!
とは言いつつ、ちょっと話をしたら昔のままなので本当に楽しかった。四半世紀程度では人は変わらんもんやなぁとつくづく思った。別の側面から言うと、高津の3年間が人生に与えた影響の大きさというのを強く感じた。実は昨日初めて会った/話した連中も何人か居るんだが、間違いなく共通の何かを持ってるんだという事を強く感じた。
同窓会には4人の先生方も来られていた。皆さんお元気で何よりで、一時期体調を壊されていたと聞いていた柔道の先生も、ギターで校歌斉唱をリードされるなど達者なご様子だった。一方で1年次の担任の体育の先生がお亡くなりになったらしいという話を聞くなど、25年という月日がやはり短くは無い事を実感した事もあった。
話をしていると、25年ぶりという事で参加に躊躇があった人も少なくなかったらしい。でも皆、来て良かったなと思ってたんじゃないだろうかと思う。昨日は3年のクラスで名札が準備されていたが、1年次のクラスがいまだに仲が良くってあっという間に集まってたのが印象的だった。来年は1年次のクラスでまた集まろうと話をしていた。
企画をしてくれた皆、本当にありがとう。
25年という月日は思った以上に人を変える。一方で25年経っても変わらんものはたくさんある。
変化は、皆「色んな意味で丸くなった」ということ。自分も含め性格的に角が取れて丸くなったなぁと思った。高津って高校は「自由と創造」をモットーにした学校で、学区トップ校とは言え相当に雰囲気が穏やかだった思う。それでも内に秘めた才能を尖らせてた連中が多かったが、25年も経つとあちこちで色々ぶつかって角が取れてきたのだろう、本当に皆穏やかになってた。
もう一つは体格。いやぁ25年という月日の恐ろしさ。幅の増えた人の多かった事。特に男はおまえ誰やねんって程に巨大化してる奴多過ぎ。かくいう自分も、「そのままやなぁ」と言われつつも、実は高校時代からは10kg増えてる。一次会で会えた連中は胸に名札を付けてたので何とか同定できたが、名札もなくなった三次会で初めて会えた一人は、誰かに名前呼ばれてるのを聞いて我が耳を疑った。おまえそんなに幅ついてたら分からんわ!
とは言いつつ、ちょっと話をしたら昔のままなので本当に楽しかった。四半世紀程度では人は変わらんもんやなぁとつくづく思った。別の側面から言うと、高津の3年間が人生に与えた影響の大きさというのを強く感じた。実は昨日初めて会った/話した連中も何人か居るんだが、間違いなく共通の何かを持ってるんだという事を強く感じた。
同窓会には4人の先生方も来られていた。皆さんお元気で何よりで、一時期体調を壊されていたと聞いていた柔道の先生も、ギターで校歌斉唱をリードされるなど達者なご様子だった。一方で1年次の担任の体育の先生がお亡くなりになったらしいという話を聞くなど、25年という月日がやはり短くは無い事を実感した事もあった。
話をしていると、25年ぶりという事で参加に躊躇があった人も少なくなかったらしい。でも皆、来て良かったなと思ってたんじゃないだろうかと思う。昨日は3年のクラスで名札が準備されていたが、1年次のクラスがいまだに仲が良くってあっという間に集まってたのが印象的だった。来年は1年次のクラスでまた集まろうと話をしていた。
企画をしてくれた皆、本当にありがとう。
2011年12月7日水曜日
単練と対練
最近、ちょっと開眼したことがある。相手を崩せるようになったというそれだけなんだが、出来るようになって気がついたのは「相手を意識しない」って事だった。
それ自体はよく言われてることだし今更という事である。相手を目の前にすると、どうしても相手をどうかしてやろうという気が働いて、余計な力が入る。結果的に力づくで崩そうとしてしまうことになるのだが、上手くいく時は相手の存在が気にならず、自分の体がそれこそ套路の動きのままに動いて結果的に相手が崩れているのだ。
気付いたのは実はそこではない。これもよく言われていたことだが、単独練習の時に相手の存在を意識せよ、ということとの繋がりだ。対練で相手を意識しないで動いた時に相手を崩せるのは、実は単独練習の時にきちんと相手の存在を意識しているからなのだ。
「一人で練習をする時に相手が居るように練習する」ことと「対練の時に相手の存在に気を取られない」ということは、実は表裏一体の事だったらしい。相手が居ないからこそ相手の存在を意識し、相手が居るからこそ相手の存在に気を取られない必要があるのだ。
何を言ってるかわからないかもしれないが、とりあえず何かの役に立つかもしれないので記録しておく。それこそ数年後には解ってなかったなぁ〜、となるかもしれないが。
それ自体はよく言われてることだし今更という事である。相手を目の前にすると、どうしても相手をどうかしてやろうという気が働いて、余計な力が入る。結果的に力づくで崩そうとしてしまうことになるのだが、上手くいく時は相手の存在が気にならず、自分の体がそれこそ套路の動きのままに動いて結果的に相手が崩れているのだ。
気付いたのは実はそこではない。これもよく言われていたことだが、単独練習の時に相手の存在を意識せよ、ということとの繋がりだ。対練で相手を意識しないで動いた時に相手を崩せるのは、実は単独練習の時にきちんと相手の存在を意識しているからなのだ。
「一人で練習をする時に相手が居るように練習する」ことと「対練の時に相手の存在に気を取られない」ということは、実は表裏一体の事だったらしい。相手が居ないからこそ相手の存在を意識し、相手が居るからこそ相手の存在に気を取られない必要があるのだ。
何を言ってるかわからないかもしれないが、とりあえず何かの役に立つかもしれないので記録しておく。それこそ数年後には解ってなかったなぁ〜、となるかもしれないが。
2011年11月24日木曜日
JEITAソフトウェアエンジニアリング技術分科会ワークショップのお知らせ
WORKSHOP 2011
「SPLの動向と実適用」
JEITA†ソフトウェアエンジニアリング技術分科会
日時:平成23年12月16日(金)11:00〜17:30
会場:(社)電子情報技術産業協会 大手町センタービル4F JEITA 409/410会議室
〒100-0004 東京都千代田区大手町1-1-3 大手町センタービル
ごあいさつ
JEITAソフトウェアエンジニアリング技術分科会では、激変するソフトウェア、およびその技術の分野において、産業界で適用可能な新しい理論や方法論の調査を進めて参りましたが、このたび、ソフトウェアプロダクトライン(SPL)関連技術の最新動向と、各企業での取り組みをご紹介させていただく運びとなりました。
本WORKSHOPでは、いまや社会基盤を支える重要な要素となっているソフトウェアを効率よく高品質で開発する手法として注目されているSPLについて、各社の取り組み事例を共有し集中的に討議することにより、ソフトウェア開発の今後の課題と可能性について共有することを目的としています。
プログラム
- 11:00〜11:05 開会挨拶(二木委員長)
- 11:05〜12:30 基調講演
講師:九州大学システムLSI研究センター准教授 久住 憲嗣氏
演題:「九州地域におけるSPL/MDD普及活動」
講師:富士通九州ネットワークテクノロジーズ株式会社
第五開発統括部技術部部長 岩崎 孝司氏
演題:「通信システム開発でのSPLE導入事例のご紹介」 - 12:30〜13:30 昼食・分科会
- 13:30〜17:00 事例紹介
- 13:30〜14:10 事例紹介(1)講師:株式会社東芝 府中事業所 発電情報制御システム部 発電情報制御システム設計担当主務 九郎丸 賢治氏演題:「発電監視制御システムにおけるプロダクトライン開発事例」
- 14:10〜14:50 事例紹介(2)
講師:株式会社日立製作所 横浜研究所
サービスイノベーション研究部 吉村 健太郎氏
演題:「ソフトウェアプロダクトラインの社内展開活動」 - 14:50〜15:30 事例紹介(3)
講師:オムロンヘルスケア株式会社 商品開発統括部
健康ソリューション機器開発部 川部 祐介氏
演題:「健康機器商品開発におけるプロダクトライン適用事例」 - 15:30〜15:40 休憩
- 15:40〜16:20 事例紹介(4)
講師:セイコーエプソン株式会社 ソフトウェア統括部
機器ソフトウェア企画設計部 長崎 慎太郎氏
演題:「低リソース開発環境における部品化/資産化取組み事例」 - 16:20〜17:00 事例紹介(5)
講師:東芝ソリューション株式会社 IT技術研究所 研究開発部
ソフトウェア開発技術ラボラトリー 室長 位野木 万理氏
同 主任 高見澤 秀久氏
演題:「既存ソフトウェア資産をプロダクトラインへと再生する取り組み」 - 17:00〜17:30 総合討議
以上
†社団法人 電子情報技術産業協会 http://www.jeita.or.jp
2011年2月10日木曜日
カード切り替え顛末記
JR東日本のVIEW Suicaカード/定期を利用しているのだが、この度クレジットカードの有効期限が来たので、新しいカードが届いた。定期券情報は駅の端末で移行させられるらしい。が、事はそう簡単にはいかなかった。
まず現在の利用形態だが、Suicaカードのオートチャージ機能を使っていた。これはSuicaの残高が一定以下になると、自動的に一定額がチャージされる仕組みだ。チャージは登録されているクレジットカードに課金する形で行われるが、私の場合はクレジットカード一体型だったのもあって、あまり考えずにVIEWカードに課金する設定にしていた。
さて、新しいカードが届いたので、出かけるタイミングで定期券情報の移行をしようと考えていたとある週末のこと。ちょうど外出の用事があったので現行のカードと新しいカードを持って出かけた。ちなみに現行のカードは最近カードリーダに対する反応がかなり悪くなっていた。ちょうどいいタイミングでカードの更新ができると思っていた所ではあった。
残念ながら行きには時間がなかったので、とりあえず電車に乗って、帰り道に処理をしようと思って改札を抜けると、違和感。Suicaがチャージされたのだ。おかしい。残高には余裕があったはずだがと思っていたが、目的地の駅を降りる時に事情が判明した。新しい方のクレジットカードにチャージされてしまい、現行のカードの定期券が使われていなかったのだ。
ここでまずおかしいのが、どうして新しい方がオートチャージされてしまったのかという事。オートチャージはSuicaの機能だと思ってたのだが、起きた現象を考えてみるとどうやら新旧のカードはその情報を共有しているらしい。確かに切り替える事だけを考えればそういう情報まで引き継げるのは理想的だが、それならば定期券情報などを切り替える時に引き継いでほしい。
まあ片道分の電車賃はあきらめるとしたが、次の問題は結局駅の端末での定期券情報の移し替えができなかったという事だ。何でも新しいカードの方でSuicaの利用履歴がつくと、移し替えができなくなるらしい。これではどうしようもないので、サポートに電話して対策を指示してもらう。それによると、現行のカードの定期券情報を一旦磁気定期券化して、そこから新しいカードに定期券情報を移せという事だった。
ということだ。そこでみどりの窓口で磁気定期券発行の手続きをお願いした。すると次の問題。窓口の端末では定期券情報の読み出しが出来なかった。確かに改札でも反応があまり良くないが、それでもちゃんと改札を通過できてるのだ。だが窓口担当者は「この機械では読み出せない」の一点張りで、もう一度サポートに電話しろという。仕方が無いのでその場でサポートに連絡する。で、また事情を一から説明。こういうのは引き継げ、ないんだろうねぇ
結局解決策は、
という手順を踏む事に。先日その書類が届き、今朝やっと新しいカードに定期券情報を移す事が出来た。
問題は古いカードのSuica残高。送られてきた指示によると、カードを送り返したら、現在のチャージ額をチャージし直した新しいカードを送り返すとの事だったが、そもそも期限が切れるカードを再送付してもらう意味が無い訳で。とりあえず試してみようと考えているのは、
である。オートチャージ機能の設定が二枚のカードで共有されているなら、この手でうまく行くはず。だめだったら…
また電話か。
まず現在の利用形態だが、Suicaカードのオートチャージ機能を使っていた。これはSuicaの残高が一定以下になると、自動的に一定額がチャージされる仕組みだ。チャージは登録されているクレジットカードに課金する形で行われるが、私の場合はクレジットカード一体型だったのもあって、あまり考えずにVIEWカードに課金する設定にしていた。
さて、新しいカードが届いたので、出かけるタイミングで定期券情報の移行をしようと考えていたとある週末のこと。ちょうど外出の用事があったので現行のカードと新しいカードを持って出かけた。ちなみに現行のカードは最近カードリーダに対する反応がかなり悪くなっていた。ちょうどいいタイミングでカードの更新ができると思っていた所ではあった。
残念ながら行きには時間がなかったので、とりあえず電車に乗って、帰り道に処理をしようと思って改札を抜けると、違和感。Suicaがチャージされたのだ。おかしい。残高には余裕があったはずだがと思っていたが、目的地の駅を降りる時に事情が判明した。新しい方のクレジットカードにチャージされてしまい、現行のカードの定期券が使われていなかったのだ。
ここでまずおかしいのが、どうして新しい方がオートチャージされてしまったのかという事。オートチャージはSuicaの機能だと思ってたのだが、起きた現象を考えてみるとどうやら新旧のカードはその情報を共有しているらしい。確かに切り替える事だけを考えればそういう情報まで引き継げるのは理想的だが、それならば定期券情報などを切り替える時に引き継いでほしい。
まあ片道分の電車賃はあきらめるとしたが、次の問題は結局駅の端末での定期券情報の移し替えができなかったという事だ。何でも新しいカードの方でSuicaの利用履歴がつくと、移し替えができなくなるらしい。これではどうしようもないので、サポートに電話して対策を指示してもらう。それによると、現行のカードの定期券情報を一旦磁気定期券化して、そこから新しいカードに定期券情報を移せという事だった。
現行カード→磁気定期券→新カード
ということだ。そこでみどりの窓口で磁気定期券発行の手続きをお願いした。すると次の問題。窓口の端末では定期券情報の読み出しが出来なかった。確かに改札でも反応があまり良くないが、それでもちゃんと改札を通過できてるのだ。だが窓口担当者は「この機械では読み出せない」の一点張りで、もう一度サポートに電話しろという。仕方が無いのでその場でサポートに連絡する。で、また事情を一から説明。こういうのは引き継げ、ないんだろうねぇ
結局解決策は、
- 書類を送付するので、その書類を添えて改札でSuica停止処理を行う。
- 停止処理の終わったSuicaと書類とセットにして、みどりの窓口で磁気定期券の発行を行う。
- 磁気定期券から新しいカードに定期券情報を移す。
という手順を踏む事に。先日その書類が届き、今朝やっと新しいカードに定期券情報を移す事が出来た。
問題は古いカードのSuica残高。送られてきた指示によると、カードを送り返したら、現在のチャージ額をチャージし直した新しいカードを送り返すとの事だったが、そもそも期限が切れるカードを再送付してもらう意味が無い訳で。とりあえず試してみようと考えているのは、
- 新しいカードを使ってオートチャージ機能の無効化を行う。
- 古いカードの残高を使い切る。
である。オートチャージ機能の設定が二枚のカードで共有されているなら、この手でうまく行くはず。だめだったら…
また電話か。
2011年2月9日水曜日
募集
現在、 @bonotake さん等と一緒に、以下の書籍の和訳を進めています。
Software Abstractions: Logic, Language, and Analysis
で、ご指示を頂きましたので翻訳のレビュアーを募集いたします。
関係者でここを見ている人が何人居るか謎ですが、一応。
Software Abstractions: Logic, Language, and Analysis
で、ご指示を頂きましたので翻訳のレビュアーを募集いたします。
- 募集人員:若干名
- 期間:3月初旬から3月いっぱいまで(予定)
- 応募方法: takeo.bono at gmail.com にメール または twitterで @bonotake にmentionしてください。
手を挙げていただいた方のうち何名かを選抜して、2/22以降にこちらから声をかけさせていただきます。(応募頂いても、残念ながらお願いしない場合がありますので、悪しからずご了承下さい)
Alloyの知識あるなしは問いません。ユーザー、あるいは入門者の視点で読んでくださる方歓迎です。
関係者でここを見ている人が何人居るか謎ですが、一応。
2011年2月3日木曜日
ウサギとカメ
先日どなたのツィートだったか、botだったか忘れたのだが、有名な「ウサギとカメ」の寓話について面白い解釈があった。なぜウサギはカメに負けたのか、ということについて、目的意識の違いを挙げていたのだ。私の解釈を加えると、なぜウサギは居眠りをしたのかという事だと思う。そして、ちょっと穿って考えて、強者を倒すための弱者の戦略に関する寓話とも思える。
念のためにウサギとカメのお話をおさらい。足の遅さをウサギに馬鹿にされたカメは、山の麓までの競争を持ちかける。スタートするとウサギはどんどんリードをとる。途中の木陰を見つけて、ウサギは一休みする。その間にもカメは着々と歩を進め、ウサギが目を覚ましてゴールに向かうと既にカメはゴールしていた。
だいたいこんな話。もとのツィートは、ウサギの目的がカメに勝つ事だったのに対し、カメの目的はゴールする事だった。だから勝てたのだと言う話であった。正直ちょっとうまく言い過ぎかなと思ったのだが、自分で少し考えてみるとこういう事かと思いついた。
ウサギはカメに対して優越感を持っていた。他者を下に見て優越感に浸るというのは、ありがちな自己賞賛のやり方だろう。「脱兎の如く」という言葉もあるように、ウサギは素早さの象徴でもあるから、これは長所に溺れる人の象徴として与えられていると思われる。
一方でカメは、何の根拠も無く競争を持ちかけている。普通なら負けるとわかっている勝負だ。これはスポ根漫画によくあるプロットの典型例でもある。強大な敵を努力で克服しようとする姿。だがこのカメは別に一ヶ月の特訓の後にウサギに挑んだ訳でもない。その辺りはご都合主義なんだが、とにかく努力と継続を武器に才能豊かな人に挑もうとする人の姿だろう。
その観点で考えると、ウサギの目的は自分がカメより優れている事を示したいだけである。そもそも競争というアイデアを持ってきたのはカメの方であるし、ゴールという目的がウサギに希薄だったのはある意味当然かもしれない。ウサギの目的を考えれば、逆に先にゴールする事はあんまり意味が無いのだ。だってどれだけ自分がカメより早いのかということを示す術が無いから。「ほらここでこんなに差がついてるぞ」ってのを見せつけ続ける事が効果的なんだから、さっさとゴールしてしまっては意味が無い。だからウサギは途中で止まったのだろう。なるほど、ウサギにとってはゴールは目的ではなかったのだろう。
カメにとってはウサギの鼻をあかす唯一の方法は、自分の出した目的を達成する事だったので、当たり前だが途中で休むという選択肢は無い。こちらはできる事を着実にやるしか無いのだ。もちろん、途中であきらめたりさぼったりしたら勝つ事はできなかっただろうからそこは評価する所だろうが、やらなければいけない事をやっているだけ、しかも才能のある人間に無根拠で「勝つ」と言い切ってしまったのだから当然といえば当然である。ただこれが、ウサギの優越感を逆手に取った高度な心理戦の結果であるなら、カメの戦略は多いに参考になる。要は相手に間違ったゴールを認識させて、自分が真のゴールを着実に目指すという戦略だ。
人間40年以上生きてくると、「あきらめずに努力する事が大事だ」なんてお気楽なお題目だけでは生きていけない事が身にしみてくる。だからウサギとカメの話も単なる「努力礼賛」ではないと解釈する方がしっくりくる。なーんか汚れてる気がしなくもないが。
念のためにウサギとカメのお話をおさらい。足の遅さをウサギに馬鹿にされたカメは、山の麓までの競争を持ちかける。スタートするとウサギはどんどんリードをとる。途中の木陰を見つけて、ウサギは一休みする。その間にもカメは着々と歩を進め、ウサギが目を覚ましてゴールに向かうと既にカメはゴールしていた。
だいたいこんな話。もとのツィートは、ウサギの目的がカメに勝つ事だったのに対し、カメの目的はゴールする事だった。だから勝てたのだと言う話であった。正直ちょっとうまく言い過ぎかなと思ったのだが、自分で少し考えてみるとこういう事かと思いついた。
ウサギはカメに対して優越感を持っていた。他者を下に見て優越感に浸るというのは、ありがちな自己賞賛のやり方だろう。「脱兎の如く」という言葉もあるように、ウサギは素早さの象徴でもあるから、これは長所に溺れる人の象徴として与えられていると思われる。
一方でカメは、何の根拠も無く競争を持ちかけている。普通なら負けるとわかっている勝負だ。これはスポ根漫画によくあるプロットの典型例でもある。強大な敵を努力で克服しようとする姿。だがこのカメは別に一ヶ月の特訓の後にウサギに挑んだ訳でもない。その辺りはご都合主義なんだが、とにかく努力と継続を武器に才能豊かな人に挑もうとする人の姿だろう。
その観点で考えると、ウサギの目的は自分がカメより優れている事を示したいだけである。そもそも競争というアイデアを持ってきたのはカメの方であるし、ゴールという目的がウサギに希薄だったのはある意味当然かもしれない。ウサギの目的を考えれば、逆に先にゴールする事はあんまり意味が無いのだ。だってどれだけ自分がカメより早いのかということを示す術が無いから。「ほらここでこんなに差がついてるぞ」ってのを見せつけ続ける事が効果的なんだから、さっさとゴールしてしまっては意味が無い。だからウサギは途中で止まったのだろう。なるほど、ウサギにとってはゴールは目的ではなかったのだろう。
カメにとってはウサギの鼻をあかす唯一の方法は、自分の出した目的を達成する事だったので、当たり前だが途中で休むという選択肢は無い。こちらはできる事を着実にやるしか無いのだ。もちろん、途中であきらめたりさぼったりしたら勝つ事はできなかっただろうからそこは評価する所だろうが、やらなければいけない事をやっているだけ、しかも才能のある人間に無根拠で「勝つ」と言い切ってしまったのだから当然といえば当然である。ただこれが、ウサギの優越感を逆手に取った高度な心理戦の結果であるなら、カメの戦略は多いに参考になる。要は相手に間違ったゴールを認識させて、自分が真のゴールを着実に目指すという戦略だ。
人間40年以上生きてくると、「あきらめずに努力する事が大事だ」なんてお気楽なお題目だけでは生きていけない事が身にしみてくる。だからウサギとカメの話も単なる「努力礼賛」ではないと解釈する方がしっくりくる。なーんか汚れてる気がしなくもないが。
2010年11月16日火曜日
2010年11月5日金曜日
過剰包装
寝室の蛍光灯が切れたので、駅前のビックカメラに買い物に行ったと思いねぇ。蛍光灯は丸形で、40型と32型の組み合わせな訳だ。で、ビックカメラに行ってみると、色んな発色型の奴があるわけですわ。40型と32型をセットにして売ってる奴があったので、とりあえず演色性が一番良さそうな奴にしてみたわけだ。
んが、家に帰ってよく見てみると40型と30型の組み合わせだったのよ。のぉぉぉぉ!紛らわしい、そんな組み合わせを隣同士で置いておくなよぉぉぉ。
仕方が無いので32型を単品で買おうとしたが、これが店頭に売ってない。こういう時はもうオンラインショッピングに限るわけで、ヨドバシドットコムのお世話になりました。で、商品は届いたのだが…
2010年10月24日日曜日
画竜点睛を欠く
洋の東西を対比するのは西洋的分析で、その意味では偏っていると認識した上で比較分析をしてみる。バランスの取り方について、天秤式ではなく円でといった様な事を書いた。天秤は西洋では公平や判断の象徴で、確か米国の裁判所のシンボルにもなってた記憶がある。日本の司法機関ってどうかなと調べたのですが、立て札がモチーフになっているらしい。個人的には左右に分ける何かではなく、「一」であることに何らかの意味付けをしたいがさすがにやり過ぎか。
思うに西洋的価値観の背景には「完全」の理想があるのではないか。完全というバランスの究極に向かって要素を足して、足して、近づこうとする。或いは完全とは何ぞやと問い詰め、黄金比なる数学の概念で説明を付けたりする。天与の理想形が存在している、そこが基盤ではないか。一方で東洋的価値観は引き算を背景に持つとの考えを聞いた。無駄を省いて単純な美しさを求めたり、場合によっては西洋的にいうバランスを敢えて崩す方向に持って行ったりする。この価値観に、東洋的なバランスの取り方を見ることが出来るのではないか。
西洋ではバランスは天与のモノであり、「与えられた完全」と認識する。一方東洋ではバランスは自分を含めて成立させるモノであって、外から眺めるものではない。雲間に隠れた風景は観る側が想像で補い、個々人が各々のバランスを得るのだ。そこでは自他が一体となる調和が得られる。
「画竜点睛を欠く」という言葉は、良く完全に一歩足りないという否定的なニュアンスで使われる。私はこの言葉が東洋的価値観の奥深さを表していると思うようになった。画家が龍の眼を入れなかったのは、観る者がそれぞれのバランスの埋め方をして、個別の価値を創造させる意図だったと思う。眼を入れられた龍が天に昇ってしまったのは、天与のバランスが人の手を離れて天に還ってしまった、とはさすがに穿ちすぎだろうか。
2010年10月20日水曜日
枕を買う
ここ暫く頭痛がとんでもなくて、肩こりもとんでもなくて、間違いなく体が歪んでるなあと思ったので、いつもの整体に行ってきました。ここに行くと半年は体が持つ。はずなんだが、今回はどうもよろしくない。実はここ最近枕の調整を色々していたんだが、やっぱり素人の調整では巧く行かないらしくって、どうも非常によろしくない方向に向かっていたらしい。そこで一念発起、まともな枕を買うことにした。
昔使っていたTempurはよろしかった記憶があるので、今回も低反発ウレタン系のものを狙うことにしていた。そこで会社帰りに某LAZONAに寄ってみた。まずは無印良品に行ってみる。羽枕もあるし、低反発ウレタン系もある。ご自由にお試し下さいのベッドがあったので、色々試してみた。羽枕は雰囲気は嫌いじゃないんだけど、今の私にはどうも合わないらしく、暫く寝てるとちょっと首下辺りが疲れてくる。それで低反発ウレタン系を試してみた。どうやら結構低めの奴がいいかなという感じ。だけどやっぱりTempurの素材に比べると接触部分に負担がかかってる気がした。
そこで今度はLOFTに行ってみた。ここにはTempurが置いているので、こっちで試してみようと考えた。Tempurもあんまり考えてなかったが、色々サイズがあるらしい。とりあえず無印で試して具合の良かったサイズに近いのを二つ選んで、店員を捕まえて試させてもらおうとした。
J:「枕を試したいんですが、場所ありますか?」
店員:「申し訳ありません、場所は無いんです。」
裏のスペースとかどっか借りて試させてもらえないものかと期待したが、どうやら出来ないらしい。無印さんはちゃんとスペース作って試させてくれてましたけどね、とかライバル店と比べて振ってみても、何も進展はなし。仕方が無いのでそのままレジに行って、持って帰って試してから合わなかったら交換してもらえるのか訊くことにした。
J:「枕買おうと思うんですが、合わなかったら返品/交換は可能ですか?」
店員:「未使用であれば承ります。」
J:「いや、使わないと合うか合わないか判断できないですよね?」
店員:「そうですねぇ〜。でも高額な商品ですので。」
いやちょっと待て。こっちだって「高額な商品」だから買うのに慎重になるし、試したいって言ってるんだよ。それをそのための環境は無いわ、試すのに使ったら返品は受け付けないって言うわ、ものを売る立場としてその態度はどうなんだと。
結局、枕を包んでいるビニール袋から出さずに試すという条件なら、持ち帰って試していいということになった。ちょっとというか、かなり店の対応には不満が残るが、こっちにしてもまともな枕を手に入れたいというのが主要な目的なのでそこはとりあえず引き下がった。
結果的には枕は合格。返品とかややこしいことをせずに済みそうで良かった。
昔使っていたTempurはよろしかった記憶があるので、今回も低反発ウレタン系のものを狙うことにしていた。そこで会社帰りに某LAZONAに寄ってみた。まずは無印良品に行ってみる。羽枕もあるし、低反発ウレタン系もある。ご自由にお試し下さいのベッドがあったので、色々試してみた。羽枕は雰囲気は嫌いじゃないんだけど、今の私にはどうも合わないらしく、暫く寝てるとちょっと首下辺りが疲れてくる。それで低反発ウレタン系を試してみた。どうやら結構低めの奴がいいかなという感じ。だけどやっぱりTempurの素材に比べると接触部分に負担がかかってる気がした。
そこで今度はLOFTに行ってみた。ここにはTempurが置いているので、こっちで試してみようと考えた。Tempurもあんまり考えてなかったが、色々サイズがあるらしい。とりあえず無印で試して具合の良かったサイズに近いのを二つ選んで、店員を捕まえて試させてもらおうとした。
J:「枕を試したいんですが、場所ありますか?」
店員:「申し訳ありません、場所は無いんです。」
裏のスペースとかどっか借りて試させてもらえないものかと期待したが、どうやら出来ないらしい。無印さんはちゃんとスペース作って試させてくれてましたけどね、とかライバル店と比べて振ってみても、何も進展はなし。仕方が無いのでそのままレジに行って、持って帰って試してから合わなかったら交換してもらえるのか訊くことにした。
J:「枕買おうと思うんですが、合わなかったら返品/交換は可能ですか?」
店員:「未使用であれば承ります。」
J:「いや、使わないと合うか合わないか判断できないですよね?」
店員:「そうですねぇ〜。でも高額な商品ですので。」
いやちょっと待て。こっちだって「高額な商品」だから買うのに慎重になるし、試したいって言ってるんだよ。それをそのための環境は無いわ、試すのに使ったら返品は受け付けないって言うわ、ものを売る立場としてその態度はどうなんだと。
結局、枕を包んでいるビニール袋から出さずに試すという条件なら、持ち帰って試していいということになった。ちょっとというか、かなり店の対応には不満が残るが、こっちにしてもまともな枕を手に入れたいというのが主要な目的なのでそこはとりあえず引き下がった。
結果的には枕は合格。返品とかややこしいことをせずに済みそうで良かった。
2010年10月12日火曜日
四対一
一日遅れではありますが、昨日の清水市代女流王将と「あから2010」の対局がありました。
こいつが勝利。しかし見れば見るほど脱力するキャラでして…
ま、それはともかくとして、今回の対局、果たして人間がコンピュータに負けたのでしょうか。いや、結果だけ見れば86手で清水女流王将が投了しているので「あから2010」の勝利ではあった訳です。
「あから2010」は、異なる四つの将棋ソフトの合議制で動いております。合議制というのはどういう事かというと、四つの異なる将棋ソフトがそれぞれ打つ手を検討して、多数決によって次の一手を決めるという方法です。「あから2010」に搭載されたソフトは以下の四つ。
こいつが勝利。しかし見れば見るほど脱力するキャラでして…
ま、それはともかくとして、今回の対局、果たして人間がコンピュータに負けたのでしょうか。いや、結果だけ見れば86手で清水女流王将が投了しているので「あから2010」の勝利ではあった訳です。
「あから2010」は、異なる四つの将棋ソフトの合議制で動いております。合議制というのはどういう事かというと、四つの異なる将棋ソフトがそれぞれ打つ手を検討して、多数決によって次の一手を決めるという方法です。「あから2010」に搭載されたソフトは以下の四つ。
- 激指
- GPS将棋
- Bonanza
- YSS
これら、作者が異なる四つのソフトが合議制に基づいて次の手を決める、これが「あから2010」の基本動作です。四つのソフトが全て同じ手を出せば、当然その手が次の手になります。一つだけ異なる手を出してきた場合は、残った三つが出してきた手を採用、といった具合です。これはソフトウェア工学の分野では古くからNバージョンプログラムと呼ばれてきたアプローチで、非常に高度な信頼性を求められるシステムに導入されてきた実績もあります。
これって要するに、四人掛かりで一人の人間に挑んでいる様なものです。しかも素人の四人ではない、プロの対局を数万通りも学習し、お互いに切磋琢磨し合ってきたコンピュータ界では最強の四人なわけです。その四人が束になって、お互いのミスを補い合って、ようやく一人の人間に勝てたというのが今回の試合だったと思います。
IPSJは「ゆくゆくは名人と」などと言っているようですが、今回のアプローチでたとえ名人に勝てたとしても、何というか将棋の試合としては認めたくないなぁというのが正直な感想です。
2010年10月10日日曜日
ノーベル平和賞
劉暁波氏へのノーベル平和賞授賞の件、自分で色々考えたり調べたりし、様々な意見に触れたりしたが、現状の意見。今回のノーベル平和賞の選考は良くない判断だ。一言で言えば「余計な事をした」と思う。
劉暁波氏にノーベル賞を贈る事の意義は何だ?それで彼の思想が彼の意図通りに認められるのか。彼の理想実現の助けとなるのか。少なくとも今贈る意義が有るのか?余計に中国政府を強硬姿勢に追い込むだけではないか。彼に最悪の事態が起きた時の責任が取れるのか。日本は腰抜けだが、ノルウェーは中国と戦ってるな、などという意見もあるがとんだ見識だ。将に政治的に、或いは実際に抹殺されようとしている人物を見殺しにして「高邁な思想」を謳ってるに過ぎない。名誉で腹が膨れるか?名声で理想が実現出来るか?
ちなみにこれを機に、ノーベル賞についても少し調べてみた。例えば、最初にTwitterで呟いた時に間違えたのだが、ノーベル平和賞はスウェーデンではなく、ノルウェーが授賞主体だ。これ以外の各賞は全てスウェーデンが授賞主体だが、正確には賞ごとに選考者が異なっている。平和賞のみがノルウェーのノーベル委員会により選考されている経緯は、スウェーデンとノルウェーの和解の印であるという。
こういう経緯を聞くと、どうも穿った見方をしてしまうのが私の性らしい。なんと言うか、ノーベル平和賞ってのはノーベル賞自身の権威付けに使われてるのではないか。友人が奇しくも「平和の事もちゃんと考えてるんですよ〜というアピールみたいなもの」と面白い表現をしていたが、正にそういう感じじゃなかろうか。今回の平和賞授賞も、劉氏をダシに使ってるのではないかと勘ぐりたくなる。聞けばかのマハトマ・ガンジー氏に平和賞が授賞されなかった理由の一つに「インド一国に対する貢献だから」というものがあったらしい。であれば明らかなダブルスタンダードだ。要は自分たちの権威付けに必要か必要でないか、それが大きな授賞理由になってるのではないか。
現在中国で起きている事は確かに問題だ。問題提起を続ける事も重要だろう。でもあくまで慎重を要する。一国の、一組織の狭隘な価値観で説得したり変化を期待出来るものではない。劉氏の妻が当局に拘束されたという情報も出たりしているこの状況をみても、「ノルウェーよくやった」と単純に言っていられるのか。去年のバラク・オバマ大統領への授賞も多分に胡散臭かったが、今回のは人の安否に関わる分、深刻だ。
劉暁波氏にノーベル賞を贈る事の意義は何だ?それで彼の思想が彼の意図通りに認められるのか。彼の理想実現の助けとなるのか。少なくとも今贈る意義が有るのか?余計に中国政府を強硬姿勢に追い込むだけではないか。彼に最悪の事態が起きた時の責任が取れるのか。日本は腰抜けだが、ノルウェーは中国と戦ってるな、などという意見もあるがとんだ見識だ。将に政治的に、或いは実際に抹殺されようとしている人物を見殺しにして「高邁な思想」を謳ってるに過ぎない。名誉で腹が膨れるか?名声で理想が実現出来るか?
ちなみにこれを機に、ノーベル賞についても少し調べてみた。例えば、最初にTwitterで呟いた時に間違えたのだが、ノーベル平和賞はスウェーデンではなく、ノルウェーが授賞主体だ。これ以外の各賞は全てスウェーデンが授賞主体だが、正確には賞ごとに選考者が異なっている。平和賞のみがノルウェーのノーベル委員会により選考されている経緯は、スウェーデンとノルウェーの和解の印であるという。
こういう経緯を聞くと、どうも穿った見方をしてしまうのが私の性らしい。なんと言うか、ノーベル平和賞ってのはノーベル賞自身の権威付けに使われてるのではないか。友人が奇しくも「平和の事もちゃんと考えてるんですよ〜というアピールみたいなもの」と面白い表現をしていたが、正にそういう感じじゃなかろうか。今回の平和賞授賞も、劉氏をダシに使ってるのではないかと勘ぐりたくなる。聞けばかのマハトマ・ガンジー氏に平和賞が授賞されなかった理由の一つに「インド一国に対する貢献だから」というものがあったらしい。であれば明らかなダブルスタンダードだ。要は自分たちの権威付けに必要か必要でないか、それが大きな授賞理由になってるのではないか。
現在中国で起きている事は確かに問題だ。問題提起を続ける事も重要だろう。でもあくまで慎重を要する。一国の、一組織の狭隘な価値観で説得したり変化を期待出来るものではない。劉氏の妻が当局に拘束されたという情報も出たりしているこの状況をみても、「ノルウェーよくやった」と単純に言っていられるのか。去年のバラク・オバマ大統領への授賞も多分に胡散臭かったが、今回のは人の安否に関わる分、深刻だ。
2010年10月9日土曜日
論語と韓非子
中国古典の代表格である「論語」は、孔子の言行録です。孔子という人は、人間の本性は善であるから、良い手本の下でなら自ずと良い人格が育まれると考えていたようです。性善説という奴ですね。孔子を祖とする一派を儒家と言いますが、彼らは概ねこの性善説が根っこに有るようです。あとは身分階級や長幼の序を貴ぶ等の特徴もあり、日本で江戸時代に学ばれた朱子学もこの一派です。
私の尊敬する 守屋洋先生は、性善説の対極にある性悪説の代表格として「韓非子」をあげられて、両者のバランスよい活用を勧めた著書をお持ちです。書物として纏められているものとしては、確かに韓非子が性悪説の代表格と言えるでしょう。性悪説、つまり人間の本性は悪であるという考えは、違う言い方をすると人間は「利」で動く生き物だという考えです。だから法律や刑罰で治めなければならないとしています。よってこの一派を「法家」と呼びます。
実は法家の教典としての韓非子は、これまできちんと読んだことは有りませんでした。私にとっての法家のルーツは、商鞅です。韓非子より先、秦の孝公に仕え、法家による政治改革を推し進めました。戦国七雄の中から秦が最強国にのし上がったのは、この時代です。商鞅と韓非子は時代は異なれども同じく秦に仕え、前者は強大国への変貌を補佐し、後者は中国統一への道筋を作りました。一方で儒家はどうだったかというと、政治の表舞台で成功を修めた様子はありません。だからと言って優劣を決められるものではなく、これは恐らく時代背景の問題でしょう。法家統治は利の追求を是とする訳ではないですし、儒家統治が利の追求を悪とする訳でもありません。統治をその時代の行動原理に合わせる方が主眼で、統治が行動原理を規定すると言っているわけではないです。
戦国時代の様に人心が荒む時代には、人の利を追求して生き延びようとする本能が強く表出するため、法家思想による統治が有効に働いたのではないでしょうか。逆に日本の江戸時代の様に安定した時代に朱子学が学ばれた様に、人心が安定すれば義を貴ぶ儒家の政治が力を発揮するのかも知れません。やはりここでも、白か黒ではないバランスを考慮した取り組みが望まれているという結論に落ち着きそうです。正確には、これも天秤の左右でバランスをとる西洋的イメージよりは、融合した円の東洋的イメージを目指したいところです。
私の尊敬する 守屋洋先生は、性善説の対極にある性悪説の代表格として「韓非子」をあげられて、両者のバランスよい活用を勧めた著書をお持ちです。書物として纏められているものとしては、確かに韓非子が性悪説の代表格と言えるでしょう。性悪説、つまり人間の本性は悪であるという考えは、違う言い方をすると人間は「利」で動く生き物だという考えです。だから法律や刑罰で治めなければならないとしています。よってこの一派を「法家」と呼びます。
実は法家の教典としての韓非子は、これまできちんと読んだことは有りませんでした。私にとっての法家のルーツは、商鞅です。韓非子より先、秦の孝公に仕え、法家による政治改革を推し進めました。戦国七雄の中から秦が最強国にのし上がったのは、この時代です。商鞅と韓非子は時代は異なれども同じく秦に仕え、前者は強大国への変貌を補佐し、後者は中国統一への道筋を作りました。一方で儒家はどうだったかというと、政治の表舞台で成功を修めた様子はありません。だからと言って優劣を決められるものではなく、これは恐らく時代背景の問題でしょう。法家統治は利の追求を是とする訳ではないですし、儒家統治が利の追求を悪とする訳でもありません。統治をその時代の行動原理に合わせる方が主眼で、統治が行動原理を規定すると言っているわけではないです。
戦国時代の様に人心が荒む時代には、人の利を追求して生き延びようとする本能が強く表出するため、法家思想による統治が有効に働いたのではないでしょうか。逆に日本の江戸時代の様に安定した時代に朱子学が学ばれた様に、人心が安定すれば義を貴ぶ儒家の政治が力を発揮するのかも知れません。やはりここでも、白か黒ではないバランスを考慮した取り組みが望まれているという結論に落ち着きそうです。正確には、これも天秤の左右でバランスをとる西洋的イメージよりは、融合した円の東洋的イメージを目指したいところです。
2010年10月6日水曜日
平均を疑え
個別の論について反対したい訳ではないので、とりあえずざっくりと経緯をご紹介する。とあるブログでこのような論があった。
日本人の成人の平均年齢は50代だが、とある司法判断に携わったメンバーの平均年齢が「30.9歳」というのは変。
私は平均を持ち出す議論はまず疑ってかかる。平均「だけ」で論を組み立てようとするのは、極論をすれば怠慢か欺瞞かの何れかだと思っている。これはその論を否定する訳ではなく、論として成立しないだろうという意味である。件の論も、ひょっとしたら本当におかしいという結論に至るかも知れない。だがその根拠が「平均年齢」だけってのはあまりにもお粗末に過ぎるという事だ。
まず最低限、平均を語る時に考えないといけないのは分布だろう。分布まではいかなくても、分散くらいは確認しておきたい。更に規模が全く違うもの、あるいは性質の全く異なる集合同士では、そもそもある属性値の統計量で比較すること自体が適切ではない可能性もある訳だ。今回の場合は、そもそも「年齢」という属性が本当に大きな要因になるのだろうか。問題となる司法判断に関係するのは年齢ではなく、平均余命かもしれない。そんな属性は全く関係なく、年収が関係あるのかもしれない。いやいや、そもそも定量化可能な属性には意味が無い可能性もある。一体その論を組み立てる為に、年齢がどの程度の意味がある事なのか。因みに件の論に関しては、私は年齢をメトリクスに取った意味を余り感じられなかった。
数字、定量的なデータに基づいた論は、何となく説得力があるように思う。一つにはそれが検証可能であるからで、客観性という意味では数字やデータに基づいた論を展開する事は重要な事だと思う。だが実のところ、数字があれば説得力があるのかと言えばそれは全然別問題。平均を取るなんてのは、データ分析を何もやっていないに等しいのだ。
論を補強する為に正しいメトリクスを選んで、正しい分析をする事。それが出来て初めてデータに基づいて論を組み立てたと言える。
2010年10月4日月曜日
表演会
10月3日(日)に、恒例の太極道交会合同表演会が開催されました。五年前くらいから運営に携わるようになり、ここ数年はプログラムの取り纏めと司会進行を主に担当してきました。今年は司会を若手二人にお願いする事にして、事前の取り纏めと当日の総指揮を担当しました。いやぁ、司会をせずに済むだけで相当楽をさせてもらいました。
しかし今回の運営はお世辞にも計画的とは言えず、色んな人にご迷惑をかけた事と思うのですが、うちの会はどうやら性善説で動いてるなぁという感想。みんなきちんと準備をしてるのですよね。細かい事は色々不都合はあるのですが、最終的には協力し合ってうまく動くようになっている。もちろん、いざという時の法や術は必要なんでしょうが、やっぱり徳で動く組織なんだなぁと実感しています。
しかし今回の運営はお世辞にも計画的とは言えず、色んな人にご迷惑をかけた事と思うのですが、うちの会はどうやら性善説で動いてるなぁという感想。みんなきちんと準備をしてるのですよね。細かい事は色々不都合はあるのですが、最終的には協力し合ってうまく動くようになっている。もちろん、いざという時の法や術は必要なんでしょうが、やっぱり徳で動く組織なんだなぁと実感しています。
2010年9月29日水曜日
色覚
最近立て続けに色覚に関するエピソードがあったのでまとめて。
その1
私は赤緑の色覚異常をもってるのですが、最近こんな事があった。細かい状況は割愛するが、とある物の色に合わせて対応する色の四種類の道具を準備するという状況だった。色は定期的に変わるので、参加者はその色の道具を出す事が求められる。ところが私はまず、その四色のうち二色を見分ける事が出来なかった。更に、四色それぞれに対して対応する色の道具を見分けられる自信も無かった。そこで参加者に、今どの道具を出すべきかを教えてくださいとお願いしたのだが、最初はその道具を色名で指定してきた。どうやら色の区別がつかないという概念が理解できないらしい。
そういや思い当たる節があって、色がわからない事と色の名前を間違えて覚えている事、あるいは色の名前を知らない事との区別がつかないらしい人も居た。色覚異常というのは、例えば私の場合は赤と緑が同じ色に見えるのである。ちなみに、「赤が緑に見える」わけでも「緑が赤に見える」わけでもない。恐らく私の見ている世界を正常な色覚の人が見れば、赤でも緑でもない色に見えるのだと思う。ま、その色の区別がつかない事が回り回って、色の名前を知らない、間違えて呼んでしまうという事にも繋がるので、その状況しか認識できないと確かにそういう誤解があるのかなとは思う。
その2
息子が中禅寺湖にキャンプに行ってきた。帰ってきて色々話をしてくれるのだが、印象的だったのは如何に寒かったかという事を伝えてくれたエピソード。一日目にとある木を見ると赤、黄、緑の三色に染まっていたのだが、とても寒かった晩が明けた翌朝に見ると、赤と黄色の二色に変わっていたというのだ。
私も知識としての紅葉はもちろん知ってはいるし、かなり鮮やかな色になれば認識は出来る。しかし、恐らく一晩で変わる程度の色の変化は認知できない。この季節の紅葉の木々を見て、錦と形容されるその景色は恐らくは相当にきれいなのだろうと思うが、残念ながらそれを知る事はかなわない。
その3
会社の研究部門でポスター発表会があった。その中に老眼や色覚異常の見え方を支援する技術というのが紹介されていた。なんでも映像情報の方を補正してやって、老眼の人や色覚異常の人にも見えやすい映像を作成するという試みであった。特に色覚異常の方に興味を持って色々聞いてみたが、当然と言うか何というか別に赤と緑が区別できる様な映像信号を生成する様な話ではなかった。いや、ある意味そう言う話なのだが、要するに色空間のマッピングを変えてやって、色覚異常の人でも見分けのつく色マップに変換するという話だった。
仮にそう言う技術で紅葉の山々の景色を変換してもらって、実際の色とは異なりながらも多彩な色を見られるようになったら、同じように感動が出来るのだろうか。少し興味がある。
その1
私は赤緑の色覚異常をもってるのですが、最近こんな事があった。細かい状況は割愛するが、とある物の色に合わせて対応する色の四種類の道具を準備するという状況だった。色は定期的に変わるので、参加者はその色の道具を出す事が求められる。ところが私はまず、その四色のうち二色を見分ける事が出来なかった。更に、四色それぞれに対して対応する色の道具を見分けられる自信も無かった。そこで参加者に、今どの道具を出すべきかを教えてくださいとお願いしたのだが、最初はその道具を色名で指定してきた。どうやら色の区別がつかないという概念が理解できないらしい。
そういや思い当たる節があって、色がわからない事と色の名前を間違えて覚えている事、あるいは色の名前を知らない事との区別がつかないらしい人も居た。色覚異常というのは、例えば私の場合は赤と緑が同じ色に見えるのである。ちなみに、「赤が緑に見える」わけでも「緑が赤に見える」わけでもない。恐らく私の見ている世界を正常な色覚の人が見れば、赤でも緑でもない色に見えるのだと思う。ま、その色の区別がつかない事が回り回って、色の名前を知らない、間違えて呼んでしまうという事にも繋がるので、その状況しか認識できないと確かにそういう誤解があるのかなとは思う。
その2
息子が中禅寺湖にキャンプに行ってきた。帰ってきて色々話をしてくれるのだが、印象的だったのは如何に寒かったかという事を伝えてくれたエピソード。一日目にとある木を見ると赤、黄、緑の三色に染まっていたのだが、とても寒かった晩が明けた翌朝に見ると、赤と黄色の二色に変わっていたというのだ。
私も知識としての紅葉はもちろん知ってはいるし、かなり鮮やかな色になれば認識は出来る。しかし、恐らく一晩で変わる程度の色の変化は認知できない。この季節の紅葉の木々を見て、錦と形容されるその景色は恐らくは相当にきれいなのだろうと思うが、残念ながらそれを知る事はかなわない。
その3
会社の研究部門でポスター発表会があった。その中に老眼や色覚異常の見え方を支援する技術というのが紹介されていた。なんでも映像情報の方を補正してやって、老眼の人や色覚異常の人にも見えやすい映像を作成するという試みであった。特に色覚異常の方に興味を持って色々聞いてみたが、当然と言うか何というか別に赤と緑が区別できる様な映像信号を生成する様な話ではなかった。いや、ある意味そう言う話なのだが、要するに色空間のマッピングを変えてやって、色覚異常の人でも見分けのつく色マップに変換するという話だった。
仮にそう言う技術で紅葉の山々の景色を変換してもらって、実際の色とは異なりながらも多彩な色を見られるようになったら、同じように感動が出来るのだろうか。少し興味がある。
2010年9月26日日曜日
日本人のアイデンティティ
某所で呟いていた内容を再整理してみた。
日本のアイデンティティとは何だろうかと考えることしばし。某研修で新渡戸稲造の「武士道」や岡倉天心の「茶の本」に触れる機会があった。そこにはそれぞれのやり方で日本の独自性やアイデンティティについて論が展開されていた。ただ時代背景、即ち海外の列強とどうやって渡り合って行くのか、あるいは現実に脅威を受けているという事などを反映してか、やはり相当に美化が強いように感じる。岡倉の"Asia is one."が戦前の大東亜共栄圏思想に「利用された」という説も読んだが、それは将に美化の産物ではなかったか。あるいは岡倉はまさにそれを意図していたのではとさえ感じた。
研修での意見交換の最中であるが、日本の特徴として他の文化に「染まった振り」をするのがうまい、という意見があった。なるほど言い得て妙かもしれない。明治の文明開化で西洋化したとは言われるが、よく言えば魂は売らない、悪く言えば上っ面だけ真似た西洋化なのだと思う。日本は根底を揺るがすような大きな変革を経験していないのだという意見もあった。直近では明治維新などは単なる政権交代にすぎないという見方もある。海外の所謂「革命」と呼ばれるものとはかなり質が異なる。
そもそも日本は世界でも異例の長期安定政権の多いお国柄なのだとも言われる。平安時代はおよそ350年に渡って貴族の安定政権が続いたし、江戸時代もおよそ250年に渡って武家の安定政権が続いた。これらの時代の特徴は、海外からの影響を排除する傾向にあったという事ではないか。平安時代は隋唐の影響下から脱しようとした時期であるし、江戸時代は言わずもがな鎖国を続けた時代である。海外との交流が無ければ独自に文化を発展するしかない。日本は人口も必ずしも多くなく、資源にも恵まれた国ではないので文化の発展速度は諸外国のそれと比べると遅いと言っていい。事実、文化的発展の加速は常に海外からの刺激による物だった。
確かに海外からの刺激によって急激な発展を遂げる事はあるが、価値観の根底を揺るがす様な変化をあまり好まない、それが日本人の本質であるように思う。そんなものは幻想で、本質などないのかもしれない。ただ、他国の人からどういうステレオタイプで見られているのかは意識しないといけないだろう。ある人は「いつもヘラヘラしている国」という強烈なステレオタイプを提示した。変わらずにその場をやり過ごせれば、また昨日と同じ日が来ると思っている、それが日本の本質なのか。2ちゃんのコピペでもあったような気がするが、原爆を落とされても、ミサイルを向けられても、領土を奪われても、不当な謝罪を求められても、お金は出すは援助はするは、謝罪はするは。本当に食べ物のことしか怒らない国かも。今回の尖閣の話もまたその一事例として残るのだろうか。
日本のアイデンティティとは何だろうかと考えることしばし。某研修で新渡戸稲造の「武士道」や岡倉天心の「茶の本」に触れる機会があった。そこにはそれぞれのやり方で日本の独自性やアイデンティティについて論が展開されていた。ただ時代背景、即ち海外の列強とどうやって渡り合って行くのか、あるいは現実に脅威を受けているという事などを反映してか、やはり相当に美化が強いように感じる。岡倉の"Asia is one."が戦前の大東亜共栄圏思想に「利用された」という説も読んだが、それは将に美化の産物ではなかったか。あるいは岡倉はまさにそれを意図していたのではとさえ感じた。
研修での意見交換の最中であるが、日本の特徴として他の文化に「染まった振り」をするのがうまい、という意見があった。なるほど言い得て妙かもしれない。明治の文明開化で西洋化したとは言われるが、よく言えば魂は売らない、悪く言えば上っ面だけ真似た西洋化なのだと思う。日本は根底を揺るがすような大きな変革を経験していないのだという意見もあった。直近では明治維新などは単なる政権交代にすぎないという見方もある。海外の所謂「革命」と呼ばれるものとはかなり質が異なる。
そもそも日本は世界でも異例の長期安定政権の多いお国柄なのだとも言われる。平安時代はおよそ350年に渡って貴族の安定政権が続いたし、江戸時代もおよそ250年に渡って武家の安定政権が続いた。これらの時代の特徴は、海外からの影響を排除する傾向にあったという事ではないか。平安時代は隋唐の影響下から脱しようとした時期であるし、江戸時代は言わずもがな鎖国を続けた時代である。海外との交流が無ければ独自に文化を発展するしかない。日本は人口も必ずしも多くなく、資源にも恵まれた国ではないので文化の発展速度は諸外国のそれと比べると遅いと言っていい。事実、文化的発展の加速は常に海外からの刺激による物だった。
確かに海外からの刺激によって急激な発展を遂げる事はあるが、価値観の根底を揺るがす様な変化をあまり好まない、それが日本人の本質であるように思う。そんなものは幻想で、本質などないのかもしれない。ただ、他国の人からどういうステレオタイプで見られているのかは意識しないといけないだろう。ある人は「いつもヘラヘラしている国」という強烈なステレオタイプを提示した。変わらずにその場をやり過ごせれば、また昨日と同じ日が来ると思っている、それが日本の本質なのか。2ちゃんのコピペでもあったような気がするが、原爆を落とされても、ミサイルを向けられても、領土を奪われても、不当な謝罪を求められても、お金は出すは援助はするは、謝罪はするは。本当に食べ物のことしか怒らない国かも。今回の尖閣の話もまたその一事例として残るのだろうか。
2010年9月25日土曜日
尖閣に関する諸々
昨日の詹容疑者釈放以来、Twitterやらブログやらなんやらで、色々な意見を目にする。色々とはいえ、多くは日本の弱腰外交を非難するものである。ただその非難の矛先がどうも色々と誤解や先入観に基づいているものが多いように思えるので、少し自分なりに整理してみる。
なお以下では、
を前提としています。
まず吃驚したのは、海上保安庁を非難するコメントの多い事多い事。今回の件で海上保安庁を非難するのは明らかに筋違い。彼らは日本の領土、領海を警備する中で今回の拿捕、逮捕へと至る一連の行動をとった訳で、これ自体は正当な職務遂行だと考える。ましてや釈放について何らかの責を負うものでは全くない。
次に釈放を決定した那覇地方検察局に対する批判も多い。これには二通りの非難がある。一つは「たかが一地検ごときが国益を左右する事案を独断で判断するとは何事」という意見。もう一つは「三権分立はどうなったのか」という意見。
前者については、それをそのまま非難する人に対して問い返したい。普通に考えて一地検がそんな判断ができると思うかと。明らかにできない。ということはこれはもっと上位の政治判断なりが存在したという事。那覇地検は今回の件では明らかに貧乏くじを引かされている。個人的には関係者の安全が心配だ。
後者については、私も誤解していたし多くの人が誤解しているようだが、検察は「司法機関ではない」のである。検察はれっきとした行政機関だ。つまりこれは完全に行政の腰砕けそのもの。しかもそれは、どう考えても一地検の独断ではあり得ない。個人的には一番最初に「地検の独自判断と聞いてる」とか嘯いた奴が怪しいと思っている。
さて、今回の中国の対応についても非難は当然上がっております。が、ここからは恐らく大多数の皆様と意見が異なるところです。
私は今回の中国の行動について、日本的価値観からみれば確かに暴挙をやってくれたと思いますが、中国的視点から見れば至極当然の行動をしているとみています。そりゃ当たり前だろう、と言うでしょうか。恐らくそうでしょう。
そこが肝心で、国際関係は所詮国の価値観と価値観とのぶつかり合いです。実のところその価値観の差異、衝突、干渉をどのように緩和し、関係を保つかが重要な訳です。日本の価値観が世界的に通用すると思ってはいけないわけです。まずは個々の国がそれぞれの価値観や拠って立つところを明らかにし、そこから折衝をしなくては行けない。明らかに問題になる状況、例えば人命を損なう様な事態で無い限り、誰の正義も共有できるものではないのです。
実質的に人質になっている某企業の四名の人命を軽んじる訳では決して無いですが、今回の外交は自国の立場を曲げて相手の価値観を一方的に認めただけの結果になった。これは中国の暴挙というよりは、日本の軽薄さだと思います。平和ぼけとは、なるほどこういう事なのかもしれません。危機管理意識が問われているのだと思います。
なお以下では、
- 尖閣諸島は日本の領土である
- 中国漁船の巡視船への衝突は公務執行妨害、器物破損の容疑である
を前提としています。
まず吃驚したのは、海上保安庁を非難するコメントの多い事多い事。今回の件で海上保安庁を非難するのは明らかに筋違い。彼らは日本の領土、領海を警備する中で今回の拿捕、逮捕へと至る一連の行動をとった訳で、これ自体は正当な職務遂行だと考える。ましてや釈放について何らかの責を負うものでは全くない。
次に釈放を決定した那覇地方検察局に対する批判も多い。これには二通りの非難がある。一つは「たかが一地検ごときが国益を左右する事案を独断で判断するとは何事」という意見。もう一つは「三権分立はどうなったのか」という意見。
前者については、それをそのまま非難する人に対して問い返したい。普通に考えて一地検がそんな判断ができると思うかと。明らかにできない。ということはこれはもっと上位の政治判断なりが存在したという事。那覇地検は今回の件では明らかに貧乏くじを引かされている。個人的には関係者の安全が心配だ。
後者については、私も誤解していたし多くの人が誤解しているようだが、検察は「司法機関ではない」のである。検察はれっきとした行政機関だ。つまりこれは完全に行政の腰砕けそのもの。しかもそれは、どう考えても一地検の独断ではあり得ない。個人的には一番最初に「地検の独自判断と聞いてる」とか嘯いた奴が怪しいと思っている。
さて、今回の中国の対応についても非難は当然上がっております。が、ここからは恐らく大多数の皆様と意見が異なるところです。
私は今回の中国の行動について、日本的価値観からみれば確かに暴挙をやってくれたと思いますが、中国的視点から見れば至極当然の行動をしているとみています。そりゃ当たり前だろう、と言うでしょうか。恐らくそうでしょう。
そこが肝心で、国際関係は所詮国の価値観と価値観とのぶつかり合いです。実のところその価値観の差異、衝突、干渉をどのように緩和し、関係を保つかが重要な訳です。日本の価値観が世界的に通用すると思ってはいけないわけです。まずは個々の国がそれぞれの価値観や拠って立つところを明らかにし、そこから折衝をしなくては行けない。明らかに問題になる状況、例えば人命を損なう様な事態で無い限り、誰の正義も共有できるものではないのです。
実質的に人質になっている某企業の四名の人命を軽んじる訳では決して無いですが、今回の外交は自国の立場を曲げて相手の価値観を一方的に認めただけの結果になった。これは中国の暴挙というよりは、日本の軽薄さだと思います。平和ぼけとは、なるほどこういう事なのかもしれません。危機管理意識が問われているのだと思います。
2010年9月22日水曜日
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